白ロシアとモスクワでの活動
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「アレクサンドル・ミャスニコフ」の記事における「白ロシアとモスクワでの活動」の解説
ミャスニコフは1918年1月30日から9月11日まで西部州ソビエト執行委 (be-x-old) 議長を務め、この短い任期の間にスモレンスク大学 (ru) などの教育・文化機関の設立を成し遂げた。同年12月31日から翌1919年3月4日までは白ロシア共産党(ロシア語版)中央委 (be) 幹部会議長を務め、その他1919年1月1日から白ロシア社会主義ソビエト共和国臨時政府軍事人民委員、同日から2月3日まで政府副議長、2月5日から27日まで中央執行委員会議長および人民委員会議議長(英語版)を歴任した(ただし、ミャスニコフは独立国家としての白ロシアの地位も、白ロシア語の存在も否定していた)。1919年3月のロシア共産党第8回党大会(ロシア語版)では、赤軍における軍事専門家 (ru) の権限縮小と軍事委員(ロシア語版)の権限拡大を主張した「軍事反対派」に属した。 同年3月8日から翌1920年にかけてはリトアニア・白ロシア共産党(ロシア語版)中央委政治局員、1919年4月から翌1920年まではロシア共産党モスクワ市委の軍事組織者、同年1月13日から5月21日までは同委責任書記、3月から6月まではモスクワ市ソビエト(ロシア語版)煽動部部長、5月21日から6月までは党モスクワ県委責任書記を歴任し、同年には西部戦線政治責任者も務めた。アントーン・デニーキン軍がモスクワに迫ったことを受け、モスクワ防衛委参謀長にも任命された。9月25日のアナキスト地下組織による党モスクワ市委会議室爆破テロに遭遇。秋には、トルコに抑留されていたアルメニア人捕虜の解放にも尽力した。
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