異端審問の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
12世紀後半以降、ヨーロッパの教会において異端審問が広がった。1179年、ローマで開かれた第3ラテラン公会議で南フランスのカタリ派は異端の宣告を受けて破門された。1184年のヴェローナ宗教会議で教皇ルキウス3世は、リヨンのヴァルド派やアルノルド派に破門を宣告した。 1188年、第3回十字軍に際してイングランドのロンドン、ヨーク、ノリッジ、リンでユダヤ人大虐殺が発生した。1189年、リチャード1世(在位:1189年 - 1199年)が十字軍出陣式場にユダヤ人の入場を禁止したことをユダヤ人迫害の勅許とみなした群衆が、ユダヤ人の家に放火したり、30人のユダヤ人が殺害される暴動が起こった。三人が処刑されたが、ユダヤ人と誤ってキリスト教徒の家に放火したり強奪した廉によるものだった。ダンスタブルではユダヤ人全員がキリスト教に強制改宗させられた。1190年、ヨークでは、ユダヤ人高利貸しへの負債を帳消しにするためにバロン(貴族)たちが、ユダヤ人に搾取された財産を取り戻すとして、ユダヤ人を襲撃した。城の塔に閉じ込められたユダヤ人は集団自決した。何人かいた生存者も改宗を誓ったが殺害され、債務証書は焼却処分された。ユダヤ人犠牲者は150人となり、住民側は罰金を課せられただけにとどまった。 1191年、ブレ=シュール=セーヌで儀式殺人で告発されたユダヤ人約100人が焚刑に処された。 1196年、ヴォルムスでユダヤ人襲撃があった。 1201年、教皇インノケンティウス3世は、暴力や拷問によってキリスト教の教えに導かれたものでも、キリスト教の刻印を受けたことには変わりはなく、西ゴート王シセブートの治下でのように、神の秘跡とのつながりが確立してしまった以上、強制によって受け入れた信仰にその後も忠実であるよう求められてしかるべきであると教書で述べて、一度改宗したユダヤ人は棄教できないとした。 1208年、アルルのローヌ河畔で教皇特使ピエール・ド・カステルノーが、カタリ派のレイモン6世の家臣によって暗殺されると、ローマ教皇インノケンティウス3世は北フランス諸侯に十字軍を要請して、1209年、第5代レスター伯シモン4世モンフォールに率いられたアルビジョア十字軍が南フランス諸都市の異端カタリ派勢力圏の攻略に向かった。このアルビジョア十字軍で南フランスは荒廃したが、そのなかでユダヤ人も迫害された。
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