異伝・変奏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 12:55 UTC 版)
『旧事本紀』における国譲り神話は『諏方大明神画詞』(1356年成立)の冒頭に採用されているが、タケミナカタの敗戦と逃亡、追いつめられ殺されようとした話は見られない。諏訪大社の祭神として『画詞』には載せるには不適当と考えたもので編纂者の諏訪円忠が削除したと考えられる。 それ日本信州に一つの霊祠あり。諏方大明神これなり。神降の由来、その義遠し。.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}竊(ひそ)かに国史の所説を見るに『旧事本紀』に云ふ、天照大神みことのりして、経津主の(総州香取社)神、武甕槌の(常州鹿嶋社)神、二柱の神を出雲国へ降し奉りて、大己貴の(雲州杵築・和州三輪)命に宣はく、「葦原の中津国は我が御子の知らすべき国なり。汝、まさに国を以て天照大神に奉らんや。」大己貴の命申さく、「吾が子、事代主の(摂州長田社・神祇官〔第八〕)若神に問ひて返事申さん」と申す。事代主の神申さく、「我が父、宜しくまさに去り奉るべし。我〔も〕違ふべからず」と申す。「又申すべき我が子ありや。」又我が子、建御名方(諏方社)神、千引の石を手末に捧げ来りて申さく、「誰、この我が国に来たりて忍び忍びにかく云ふは。而して力競べせんと思ふ。」 先づ、その御手を取りて即ち氷を成り立て、又剣を取り来て、科野の国・洲羽の海に至る時、建御名方の神申さく、「我、この国を除きては他処に行かじ」と云々。これ則ち垂迹の本縁なり。 『画詞』より少し前に書かれた『神皇正統記』(北畠親房著)も同じく『旧事本紀』の記述を使用したと見られる。 さらに又くださるべき神をえらばれし時、経津主の命(檝取(かとり)の神にます)武甕槌の神(鹿嶋(かしま)の神にます)みことのりをうけてくだりましけり。出雲国にいたり、はかせる剣をぬきて、地につきたて、其上にゐて、大汝の神に太神の勅(みことのり)をつげしらしむ。その子都波八重事代主神(今葛木(かつらぎ)の鴨(かも)にます)あひともに従(したがい)申。又次の子健御名方刀美の神(今陬方(すは)の神にます)したがはずして、にげ給しを、すはの湖(みづうみ)までおひてせめられしかば、又したがひぬ。 中世以降に書かれた『信濃国日向社伝記』や『上社権祝本諏訪縁起断簡』には、大国主がタケミナカタに科野国の平定を命じたという異伝が見られる。また春瑜筆『日本書紀私見聞』(1426年)には、山王の三男である「諏防大明神」は日本国を我が物にしようとして軍を起こすも天照大神に打ち負かされ、降参後に信乃(信濃)国に鎮座することを約束するというバリエーションが録されている。 長野県内各地にはタケミナカタの逃亡・諏訪入りにまつわる伝承のある場所がいくつか存在する。下伊那郡豊丘村に伝わる伝承によれば、タケミカヅチがようやくタケミナカタに追いついたところ、タケミナカタが降参し、タケミカヅチと和睦を結んだ。同村にある御手形神社には、終戦の印として両者の手形を彫り残したといわれる石がある。その後、タケミナカタが豊丘村から隣の大鹿村に移って、しばらくそこに滞在したという。このことから、大鹿村鹿塩梨原にある葦原神社はかつて「本(もと)諏訪社」と呼ばれていた。また、塩尻市の小野神社や、上田市の生島足島神社にもタケミナカタが諏訪に入る前に一時滞留したという伝承が語られている。北安曇郡小谷村にある大宮諏訪神社も、タケミナカタの信濃入りの際の神跡と伝えられる。 徳島県名西郡石井町にある多祁御奈刀弥神社にも「元諏訪」伝承がある。社伝によると、『古事記』に書かれている「州羽」は当社の事を指し、長野県にある諏訪大社はこの神社から宝亀10年(779年)に移遷されたものであるという。
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