異なる社会、異なる文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 18:46 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1849-1865)」の記事における「異なる社会、異なる文化」の解説
フィラデルフィア憲法制定会議で新しくアメリカ合衆国という国を建国するために行われた議論で建国の父達が考えたことは、ニューヨーク州やバージニア州のような大型州とデラウェア州やロードアイランド州のような小型州の間に大きな歪みが生まれることを示唆していたように見えた。しかし、1820年までにアメリカは南北で分かれることが明らかになってきた。1820年のミズーリ妥協はこれら党派的分裂が初めて明らかになったものの一つだった。トーマス・ジェファーソンからジョン・ホームズに宛てた有名な手紙では次のように書かれていた。 私は長い間新聞を読むのを止めており、社会事情に注意も払わなかったが、私の所から幾らも離れていない対岸では社会が安泰であり、移動者には満足のいく状態であることを確信してきた。しかしこの重大な問題は夜の警鐘のように私の目を覚まさせ恐怖に捕らえる。わたしはそれを同時に合衆国の弔鐘であるとも考えた。 1819年にミズーリ州が州としての昇格を申請したとき、奴隷制はすでにその準州時代から既成事実だった。ニューヨーク州選出のアメリカ合衆国下院議員ジェイムズ・トールマッジはミズーリが奴隷州として合衆国に加盟することを許すべきではないと提案した。同じ年にメインが州昇格を申請したことで逃げ道が用意された。アメリカ合衆国上院はメインとミズーリの州昇格申請を単一の法案とすることに合意した。さらにミズーリ妥協では、アーカンソー州北境界である北緯36度30分より北では奴隷制を禁じてもいた。 危機が回避された中で、ミズーリ妥協に関わる議論によって新しい合衆国に既に存在した党派的緊張関係を白日の下に曝すことになった。北部と南部はその設立自体から異なる方法で行われ、長年の間に全く異なる発展を遂げていた。エリー運河の建設の結果として生まれた交通革新は、1780年代後半にアレクサンダー・ハミルトンが提案した路線に沿って北部における経済発展と工業化に拍車を掛けた。蒸気船の発展、さらに重要なことに鉄道の発達はこの経済発展に大きく貢献した。この工業化の過程は、ハミルトンのライバルであるトーマス・ジェファーソンが描いた農業を基本とするままだった南部にはほとんど訪れなかった。奴隷制が南部経済を生き続けさせた。その結果、2つの地理的地域は上院と下院で常に反目し合うようになった。
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