番組ができるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/17 09:02 UTC 版)
本作は国際警察の秘密捜査官グループが主役の『キイハンター』に端を発し、探偵学校の校長とその生徒達が主役の『アイフル大作戦』、探偵社メンバーが主役の『バーディー大作戦』と続いた「TBS系土曜夜9時枠・東映製作」によるアクションドラマ路線の4作目に当たる。 『キイハンター』、『アイフル大作戦』、『バーディー大作戦』までの3作と違い、「登場人物の葛藤や悲哀、緊張感に満ちた心理描写や、社会性を強調した重厚かつ先の読めない人間ドラマ」をコンセプトとした「ハードボイルド刑事ドラマ」として製作された。路線変更の中心となったのは『キイハンター』以降、TBS土曜夜9時枠のアクションドラマを手掛けてきた東映のプロデューサー・近藤照男であった。近藤はもともとシリアスで社会派のハードボイルド志向が高く、単なるアクションドラマではなく、重厚かつ完成度の高いドラマ性を加味した作品を作ることを目指していたそうで、『キイハンター』から『バーディー大作戦』までは、本来近藤が求める路線ではなかった。『キイハンター』は当初半年間(26回)放映予定のはずが、爆発的なヒットを飛ばして5年間のロングランとなり、続く『アイフル大作戦』も『キイハンター』ほどではないが安定した人気と視聴率を獲得した。しかし次の『バーディー大作戦』が視聴率的に苦戦していたことが転機となり、『バーディー大作戦』の問題点を含めて、次回作の方向性などについて、スタッフと議論を重ねたという。そればかりでなく、オイルショックに伴う1970年代中期の世情不安を反映した登場人物の苦悩や悲哀、重厚かつ陰惨な社会派の人間ドラマを求められるようになったことが、本作の企画に大きく影響し、当時の世相や状況も近藤をはじめとするスタッフを奮い立てる要因となった。事実、『バーディー大作戦』も終盤の頃になると前半のようなコミカルタッチなエピソードはほとんど無くなり、シリアスなエピソードが連作され、作風も『Gメン』に近いものになっていった。 企画書を書いた脚本家・高久進の証言では、『バーディー大作戦』終了後に残されたTBSとの契約期間(1975年5月 - 9月までの19話分)を埋める目的で本作の企画は開始しており、高久は短期間での終了を逆手にとって当時愛読していたフレデリック・フォーサイス風の企画書や脚本を執筆したところ、予想外の高視聴率を得て1975年10月以降の延長が決まるほどの人気番組になった。1970年代後半には、同じTBS系列の『8時だョ!全員集合』の次番組として高視聴率を獲得し、また裏番組の『大江戸捜査網』(テレビ東京系列)と並んで土曜21時台を代表する番組となった。
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