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畠山重忠の乱

(畠山の乱 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/11 09:31 UTC 版)

畠山重忠の乱(はたけやましげただのらん)は、鎌倉時代初期の元久2年6月22日1205年7月10日)、武蔵国二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)において、武蔵国の有力御家人畠山重忠が武蔵掌握を図る北条時政の策謀により、北条義時率いる大軍に攻められて滅ぼされた事件。鎌倉幕府内部の政争で北条氏による有力御家人粛清の一つ。


注釈

  1. ^ ただしこれを義時擁護のための編纂者の意図的な曲筆と決めつけてよいものかについては疑問がある。武久堅は鎌倉時代に『畠山物語』という4巻の軍記物があったといい[5]、『吾妻鏡』に見る重忠像は北条氏に滅ぼされたにしては際だった英雄像であることから、そこでの畠山顕彰がそのまま『吾妻鏡』に書き写された可能性を大石直正は指摘している[6]。なお、細川涼一は重忠と河越重頼の記事を比較して、重忠の同族の出身で比企氏の婿であった重頼とその娘(源義経の正室)については存在をなるだけ「隠蔽」する曲筆が行われ、北条氏の婿である重忠は北条氏と対立した比企氏・河越氏の事績を隠す意味においてはむしろ顕彰の対象であったとしている[7]

出典

  1. ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』小学館、2021年、p135
  2. ^ 山野龍太郎「畠山重忠の政治的遺産」『武蔵武士の諸相』勉誠出版、2017年。
  3. ^ 山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館、2021年)P147.
  4. ^ 呉座勇一『頼朝と義時 武家政権の誕生』(講談社現代新書、2021年)P235-240.
  5. ^ 武久堅「畠山物語との関連」『文学』第44巻第10号、岩波書店、1976年。 
  6. ^ 佐藤和彦; 谷口榮 編『吾妻鏡辞典』東京堂出版、2007年、21頁。 
  7. ^ 細川涼一「河越重頼の娘-源義経の室」『女性歴史文化研究所紀要』16号、京都橘大学、2007年。 
  8. ^ 指定・登録文化財目録”. 横浜市教育委員会 (2020年5月29日). 2020年11月27日閲覧。


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