町村合併の経緯とは? わかりやすく解説

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町村合併の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 23:41 UTC 版)

黒川郡」の記事における「町村合併の経緯」の解説

1889年明治22年4月町村制施行にともなう明治の大合併によって、黒川郡内には10町村成立した明治の大合併1889年4月大衡村(2,912大松沢村(2,081) 吉田村(2,491吉岡町(3,246落合村(2,509粕川村(1,690宮床村(2,003) 富谷村(3,645鶴巣村(2,711大谷村(4,454町村名の下の括弧内の数字1920年大正9年国勢調査人口単位:人)。 昭和の大合併の際、県が提示した試案郡内西部南北2つ東部1つの計3自治体再編するというものであった。 県の合併試案1954年2月大衡村(6,112大松沢村(3,245吉田村(3,606吉岡町(5,239落合村(3,259粕川村(2,991宮床村(3,066) 富谷村(5,201鶴巣村(4,036) 大谷村(6,813町村名の下の括弧内の数字1950年昭和25年国勢調査人口単位:人)。北部4町村18,216南部3ヶ12,303東部3ヶ13,049人 東部3ヶ試案通り1954年昭和29年7月1日合併し大郷村となったが、西部では大衡村独立望んで合併反対富谷村は県試案支持したものの、他の5町村西部7町村全て統合する大規模合併主張したため交渉決裂し結局大衡村富谷村の2除いた1町4合併して1955年昭和30年4月20日大和町成立したその後大衡富谷は県から残置町村指定されず、1957年昭和32年)には宮城県知事から、1960年昭和35年)には内閣総理大臣から重ねてに対して大和町合併せよとの勧告なされたが、両ともこれを拒否し黒川郡は1町3となって昭和の大合併終えた(のちに大郷富谷が町施行し3町1となる)。 昭和の大合併1955年4月)(■:現・大和町、■:現・大郷町大衡村 大松沢村 吉田村 吉岡町 落合村 粕川村 宮床村 富谷村 鶴巣村 大谷村 平成の大合併の際には宮城県黒川郡現行4町村統一する案を提示したほか、富谷町仙台市編入する案も出されたが、人口激増によって単独市制施行見込み生じている富谷町はこれらの案を拒否し平成の大合併による自治体統廃合発生しなかった。 「昭和の大合併直後黒川郡内町人口1955年昭和30年国勢調査黒川郡44,862人)内の人口比 大和町19,825人 (44.2%) 大郷村13,140人 (29.3%) 大衡村:6,754人 (15.1%) 富谷村:5,143人 (11.5%) 富谷離脱直前黒川郡内町人口2015年平成27年国勢調査黒川郡93,908人)内の人口比 大和町28,244人 (30.1%) 大郷町:8,370人 (8.9%) 大衡村:5,703人 (6.1%) 富谷町51,591人 (54.9%)

※この「町村合併の経緯」の解説は、「黒川郡」の解説の一部です。
「町村合併の経緯」を含む「黒川郡」の記事については、「黒川郡」の概要を参照ください。

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