申千洙
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1926年、全羅南道長城で生まれる。 1942-43年、京城の酒場で働く。 1943年、平壌の日本人の食堂で羊羹の製造に従事。 1943年9月、食堂の前に平壌職業紹介所による日本製鉄の工員募集の張り紙が掲示される。 1943年9月、定員100名に対し、500名の応募。面接試験に合格。 「日本で技術を習得することに大きな期待をかけていたため、日本まで移動する間、逃亡するつもりはなかった」 日本製鉄の大阪製鉄所に配属。日本に出発前に1〜3か月、団体行動の訓練。大阪へ配属後は午前中に軍事訓練、午後に作業訓練。 試験をうけるも不合格、石炭を焚いて熱いガスを溶鉱炉に送る仕事に従事。 1944年2月、現員徴用をうける。 1945年3月、大阪空襲により大阪製鉄所が焼失。 1945年6月、日本製鉄が朝鮮人労働者を朝鮮・咸鏡北道清津製鉄所に配置転換したのにともない、六月末に清津に移動。一か月あまり製鉄所建設のための土木工事に従事。 1945年8月9日、清津にソ連軍が上陸開始、清津製鉄所の日本人・朝鮮人職員は山中に避難した後、茂山、城津へと移動。申千洙は茂山から汽車に乗って京城に到達し、日本製鉄の支社を訪れたが、皆去った後だった。約二年間勤務した給与総額(推定)約2,400円のうち、貯金410円、賃金57円44銭を受け取ることができなかった。 1997-2003年、呂運澤とともに、日本の裁判所において「強制連行と強制労働に対する慰謝料と未払金の支給」を求める訴訟。敗訴。 2005-2018年、呂運澤、李春植、金圭洙とともに、韓国の裁判所にて訴訟。勝訴。
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