李春植
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:18 UTC 版)
1924年、全羅南道羅州で生まれる。 1941年、大田市が募集した国民勤労報国隊に応募。本人はのちの裁判で「報国隊として日本に連れて行かれた」と主張。 「日本で技術を習得することに大きな期待をかけていたため、日本まで移動する間、逃亡するつもりはなかった」 日本製鉄の釜石製鉄所に配属。日本に出発前に1〜3か月、団体行動の訓練。釜石へ配属後は午前中に軍事訓練、午後に作業訓練。 1944年、釜石製鉄所を辞職。徴兵されて軍事訓練を受けた後、神戸地域で米軍捕虜の監視員となる。 約三年間勤務した給与のうち、賃金23円80銭分を受け取ることができなかった。 2005-2018年、呂運澤、申千洙、金圭洙とともに、韓国の裁判所にて訴訟。「(日本製鉄では)三年間働いたが、月給をもらったことがない」と主張。勝訴。
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