たなか‐しょうへい〔‐シヤウヘイ〕【田中正平】
田中正平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/21 18:35 UTC 版)
たなか しょうへい
田中 正平
|
|
---|---|
生誕 | 1862年6月12日![]() (現: ![]() |
死没 | 1945年10月16日(83歳没)![]() |
出身校 | 帝国大学理学部 |
職業 | 音響学者、物理学者、鉄道技師 |
著名な実績 | 新型の連動装置を開発。 |
代表作 | 純正調のリード・オルガンを製作。 |
影響を受けたもの | ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ |
活動拠点 | 鉄道調査所(現・鉄道総合技術研究所) 田中電機研究所 文部省国民精神文化研究所 |
親戚 | 森鴎外 |
受賞 | 朝日文化賞 |
栄誉 | 勲四等瑞宝章 |
田中 正平(たなか しょうへい、1862年6月12日(文久2年5月15日) - 1945年(昭和20年)10月16日)は、純正調オルガンを発明した日本の音響学・物理学者であり、鉄道技師として要職に就いた。また三絃楽速記法を考案して約三千種を採譜した邦楽の研究家としても知られる[1]。
略歴
淡路国三原郡八幡村(町村制後:賀集村、現:兵庫県南あわじ市賀集八幡)に生まれ、1882年(明治15年)に21歳の最年少で東京大学理学部物理学科を首席で卒業。
1884年(明治17年)8月、文部省代表として森鷗外などと共にドイツ帝国のベルリン大学へ留学[2]。ヘルマン・フォン・ヘルムホルツの下で音響学と電磁気学について研究する。
1889年(明治22年)に純正調のリード・オルガンを製作し、翌1890年(明治23年)にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の前でも演奏を行った。この純正調オルガンはハンス・フォン・ビューローにより「エンハルモニウム」と命名される(しかし純正調研究について西欧の音楽事典等では田中より早いボーサンケによる研究の方が有名である《Generalized keyboard(英語版)参照》)。1892年(明治25年)には、ヨーゼフ・ヨアヒム、ヴィルヘルム2世、明治天皇や日本、ドイツ両国の文部省資金援助などの支援により純正調パイプ・オルガンを完成させた。またこの間、1890年(明治23年)には「純正律の研究」によりドイツからドクトルの学位を、1891年(明治24年)には日本から理学博士の学位を与えられる。1899年(明治32年)に帰国。
1901年には、日本で最初にガスマントル(白熱ガス灯)の特許申請を行なった[3]。日本鉄道会社(現・JR)に入社し、鉄道試験所の所長になる[3]。
同年、美音会を組織し、邦楽演奏会などを多年に渡り開き続け、約3,000曲の邦楽曲を採譜する。
同年にはさらに日本鉄道の汽車課長にも就任した。その後、1907年(明治40年)に鉄道調査所(現・鉄道総合技術研究所)の技師に就任。1911年(明治44年)には所長に昇進した。所長時代に田中が中心となって開発した新型の連動装置は、当時としては画期的な設計で、明治末期の鉄道技術界の話題をさらったといわれている[4]。 1912年9月、第6回材料試験万国会議に出席[5]。 退官後は田中電機研究所を設立、鉄道用信号装置などの多くを発明しつつも、前述の美音会など音楽振興に尽くし、当時の社団法人日本音楽協会理事長、文部省国民精神文化研究所所員としても嘱託された[1]。1940年(昭和15年)には論文「日本和声の基礎」を発表している。
1945年(昭和20年)10月16日、千葉県山武郡千代田村(現・芝山町)にて病没。
著作
- 『新式乗除速算表』田中電機研究所, 1928 doi:10.11501/1054541
- 『新考案乗除筆算法 : 能率増進』田中電機研究所, 1931 doi:10.11501/1211442
- 『日本和声の基礎』創元社, 1940 doi:10.11501/1265764
- Tanaka, Shohé (1890). “Studien im Gebiete der reinen Stimmung” (ドイツ語). Vierteljahrsschrift für Musikwissenschaft (Leipzig: Breitkopf und Härtel) 6 (1): 1-90. OCLC 255395378.
受賞
- 1938年 - 朝日文化賞
栄典
エピソード
- 大隈重信は『早稲田清話』(大隈 1922)の中で、1901年(明治34年)伊藤博文がドイツでヴィルヘルム2世に謁見した際「貴国の田中正平は今如何して居るか」と問われ、田中のことを知らないため答えられず「田中は音楽の研究に於ては珍しい天才のある傑出した人物だが、それを知らぬのか」と続けて言われて赤面したというエピソードを語っている。
- 東京音楽学校のプリングスハイム教授が作曲した日本和声について、日本的でないという反論を行なったことがある。
- 妻は森鴎外の親戚[3]。
門人
脚注
- ^ a b kotobank-田中正平.
- ^ 明治17年留学生のメンバーは森林太郎、片山国嘉、丹波敬三、長與稱吉、田中正平、宮崎道三郎、隈川宗雄、萩原三圭、穂積八束、飯盛挺造、の10名、鴎外がこの10名を日東十客ノ歌を書いている。(中井義幸 1999, p. 5)
- ^ a b c 第4回講座 東京ガスの歴史とガスのあるくらし高橋豊、川崎区役所、平成18 年10 月19 日
- ^ 沢 1998.
- ^ 大蔵省印刷局(編)「叙任及辞令」『官報』第5号、1912年8月15日、66頁、NDLJP:2952098。
- ^ 大蔵省印刷局(編)「叙任及辞令」『官報』第8257号、1910年12月28日、730頁、NDLJP:2951610。
参考文献
- 片山喜一郎 著、片山滴園 編『淡路之誇 : 御大礼紀念』 上巻、實業之淡路社、1929年、343頁。NDLJP:1210369。
- 沢, 和哉『日本の鉄道 こぼれ話』築地書館、1998年。 ISBN 4-8067-4618-5。
- 中井義幸 編『鴎外留学始末』岩波書店、1999年。doi:10.11501/14126974。 ISBN 4-00-022362-3。
- 大隈, 重信 著、相馬由也 編『早稲田清話』冬夏社、東京、1922年。NDLJP:964461。
関連項目
外部リンク
- 洋楽文化史研究会 第18回例会 昭和の田中正平 「純正調」研究から日本的和声へ - ウェイバックマシン(2012年1月29日アーカイブ分) [リンク切れ]
- 「田中正平」 。コトバンクより2025年8月22日閲覧。
田中正平と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 田中正平のページへのリンク