産業政策の是非
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 23:31 UTC 版)
戦後、通産省を中心として実施されてきた産業政策の有効性をめぐる議論。 80年代は日本が最も輝いていた時代であり、欧米各国が石油危機等で苦しみ、発展途上国は相変わらず貧しい国がほとんどという状況下で、戦後劇的な経済成長を遂げ、この当時も安定成長を続けていた日本経済は、世界の賞賛の的であった。治安は良く、国民は勤勉であり、およそどの国よりも平等な社会を実現し、次々と新たな技術・製品を生み出し続けていた当時の日本を、世界各国はこぞって比較研究の対象とした。青木昌彦らによる比較制度分析も、こうした日本の異質性の解剖という時代文脈から生まれてきたと言ってよい。 そして当時、そのような日本型システム(いわゆる「Jシステム」)の核と見られていたのが、東京大学法学部出身者を中心に構成されたエリート集団である日本官僚主導によるさまざまな計画・指導の下で経済が動いているという「物語」であった。官僚機構の各種行政指導の中でも、極めて高い注目を集めたのが、大蔵省による金融行政と、通産省による産業政策であり、これらは内外の多くの識者(取り分け、保守系の評論家)から好意的に受け取られていた(村上泰亮の「開発主義」等)。このような状況下において、小宮隆太郎らは、産業政策が果たした役割について、実は必ずしも望ましいものとは言えなかったということを明らかにした(小宮隆太郎、奥野正寛、鈴村興太郎編『日本の産業政策』, 東京大学出版会, 1984年)。 従来は官僚機構によって保護されてきた諸産業(金融業、農林水産業、建設業、公的部門など)がその非効率さのために苦しむ一方で、自動車や電機といった、常に世界的な競争にさらされてきた産業は、相変わらず高い生産性を誇っていた。この状況を前にして、産業政策の有効性を説く論者は少なくなった。 1980年代の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」「ルック・イースト」の風潮の中で、当時、世界から絶賛され栄華を極めていた日本官僚制に対して、あえて小宮たちが政策的疑義を差し挟んだ。そして、こうした産業政策に対する批判的検討は、その後も三輪芳朗らによって続けられている。
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