産業振興と人口減少
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 03:11 UTC 版)
美祢市の国勢調査時の人口は、1960年(昭和35年)の39704人をピークに減少し続ける。これは炭鉱の閉山が相次いだことが原因であった。1965年(昭和40年)の国勢調査では34359人、1970年(昭和45年)は27639人と、1975年(昭和50年)は22552人と、5年間に1割以上の人口減が続いた。その後もペースは鈍くなったものの人口減が続いた。 1962年(昭和37年)に美祢市は産炭地域の指定を受けた。1970年(昭和45年)の山陽無煙炭鉱の閉山前、当時の美祢市の人口の約4分の1が山陽無煙炭鉱の従業員とその家族で、市の予算の約3分の1が山陽無煙炭鉱からの市税、固定資産税、鉱業税などの収入で占められていた。このため山陽無煙炭鉱閉山の動きに美祢市は神経を尖らせ、母体である宇部興産にしばしば対応策を要請していた。 山陽無煙炭鉱の閉山が決定すると、美祢市や美祢市商工会議所は宇部興産に新企業の設立など対応策を要請するとともに、美祢地区振興対策協議会を設立して企業誘致、工業団地の建設などといった地域振興策に取り組んだ。宇部興産は山陽無煙炭鉱の美祢側に宇部電気化学、豊浦側に美祢機械製作所を設立して、主として山陽無煙炭鉱からの離職者を採用した。 山陽無煙炭鉱の閉山時は高度経済成長期であったため、求人は多かった。閉山前後に宇部興産関連企業に配転が決まり、美祢を離れた人たちも多かったが、他の企業に再就職して美祢を去った人たちも数多くいた。 続いて美祢では旧産炭地域の産業振興を目的とした工業団地の造成が始まった。1971年(昭和46年)、山陽無煙炭鉱閉山後の離職者対策を目的として、美祢市が取得した土地で産炭地域振興事業団(後の地域振興整備公団)が曽根工業団地の事業を開始した。続いて地域振興整備公団が1981年(昭和56年)から美祢工業団地の事業を開始した。美祢工業団地は1988年(昭和63年)に分譲を開始し、曽根工業団地、美祢工業団地ともに企業が進出し、炭鉱閉山後の美祢市の地域振興に貢献した。
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