王国史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 23:42 UTC 版)
「ピエドラス・ネグラス」の記事における「王国史」の解説
ピエドラス・ネグラスは、ウスマシンタ川流域で一時は最大の勢力を誇った王国の首都である。ウスマシンタ川の40キロメートル上流にはライバルであったヤシュチランがあり、サン・ペドロ・マルティル川とウスマシンタ川に挟まれた地域にはラ・オンラデス、パハラルやサポテ・ボバルなど中小規模都市で構成されたHix Witz(ジャガーの丘)同盟が存在した。出土した土器から推測されるに、紀元前7世紀中頃から定住が始まり、紀元850年頃にはその他の古典期マヤ都市センターと同様に放棄された。王国が創始された時代は判明していないが、当初は小規模の都市であったと見られる。紀元450年頃からヤシュチランの碑文においてピエドラス・ネグラスの王が敗者として刻まれるなど、この時代には既に重要な都市センターになっていた。古典期前期の碑文はわずかしか残されていないが、後の時代の碑文には紀元500年頃にテオティワカンの影響があったことを物語る記述がある。彫刻と建築が最も活発に行われたのは、紀元608年から紀元810年にかけてである。紀元608年は石碑25が作られた年であり、その彫刻にはキニチ・ヨナル・アーク1世の即位の様子が描かれている。この時代以降、ウスマシンタ川流域のライバルであるヤシュチランとの抗争の他に、ペテン地方西部に勢力を伸ばしてきたペテン地方中部やペテシュバトゥン地方の勢力とも争うことになる。他の古典期マヤ王国が衰退していくなかで、紀元8世紀後半においてピエドラス・ネグラスの芸術活動は最高峰に達し、石板3や石碑14、石碑15、玉座1などを作成した。ピエドラス・ネグラスのモニュメントのユニークな特徴は、いわゆる「芸術家の署名」が多々見られることである。多い例では、石碑12に8人の署名が見られる。だが、紀元808年にヤシュチランとの戦争に敗れた後、紀元810年の祭壇3を最後に長期暦を刻んだ彫刻は作成されなくなり、まもなくこの都市は終焉をむかえることになる。都市が放棄される前に、玉座1などいくつかのモニュメントが故意に破壊されており、支配者を描いた肖像や文字に対しては損傷を加えられたが、神々を描いた肖像と文字は無傷のままであった。このことはマヤ文字を読み書きできる人々によって、反乱若しくは征服が行われたことを示している。ただし、ウスマシンタ川は重要な交易路であり、王国が滅んだ後も人が住んでいた形跡がある。
※この「王国史」の解説は、「ピエドラス・ネグラス」の解説の一部です。
「王国史」を含む「ピエドラス・ネグラス」の記事については、「ピエドラス・ネグラス」の概要を参照ください。
- 王国史のページへのリンク