燕の鎚起銅器の製作技術
名称: | 燕の鎚起銅器の製作技術 |
ふりがな: | つばめのついきどうきのせいさくぎじゅつ |
芸能工芸区分: | 工芸技術 |
種別: | 金工 |
選択年月日: | 1980.04.04(昭和55.04.04) |
選択要件: | |
備考: | |
解説文: | 新潟県燕市大字燕に伝承されている鎚起銅器の製作技術は、明和年間(一七六四-一七七二)奥州より伝えられたものといわれ、その製作技法は江原源六、大泉由兵衛等を経て初代玉川覚兵衛が継承し、文化年間(一八〇四-一八一八)に間瀬銅山の銅材を活用して鍋、釜、薬罐【やかん】類の生産を始めている。その後、二代玉川覚次郎、三代覚平と続くが、この間玉川堂【ぎよくせんどう】の鎚起銅器として世に知られた。四代は第一次大戦後の好況により、業界が安易に流れ、かつ、職人が割の良い洋食器製造に転じていく中で、海野勝珉【しようみん】(帝室技芸員)等の指導を受け技法の洗練を図り、同時に一ツ金から銅器を打出す手法を完成した。 技法の特色は、銅板を鳥口【とりぐち】に当て大小の金鎚・木槌でコツコツと打出し、器を成形する点にあり、特に薬罐類の注口【つぎぐち】、把手【とつて】の耳、蓋の撮【つまみ】、底部等の工作には接着材(鑞【ろう】)が用いられない。戦後は、銅価暴騰や生活様式の変化、地味で根気のいる仕事のために職人も定着し難かったが、昭和三十三年の県による無形文化財指定措置以来、販路も徐々に広まり後継者も現われてきている。 現在、五代玉川覚平を筆頭に約三〇名の技術者が「玉川堂」工房のもとで、鎚起銅器の生産に従事しているが、このうちの熟練した技術者の伝承する技術を記録保存しようとするものである。 |
金工: | 南部茶の湯釜南部鉄瓶 布目象嵌 流込象嵌及び鑞付け透入り鉄袋打 燕の鎚起銅器の製作技術 秋田銀線細工 肥後透及び肥後象嵌 茶の湯釜 |
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