漱石との結婚後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 03:31 UTC 版)
漱石とは見合い結婚をしたが、漱石は見合いの席で口を覆うことをせず、歯並びの悪さを隠さずに笑う(当時、女性がこのように振舞うのは無作法なものだとされていた)裏表のない鏡子に好感を抱く。また、鏡子も漱石の穏やかな容姿に魅かれ、父が漱石のことをベタ褒めした(重一は日頃から、自分の娘は帝大卒業者でなければ嫁がせないと公言していた)こともあって、1896年に結婚した。しかし、お嬢様育ちの鏡子は家事が不得意であり、寝坊することや、漱石に朝食を出さぬままに出勤させることもしばしばで、漱石がこのことを「お前のやっていることは、不経済極まりない」と叱ると、逆に「眠いのを我慢していやいや家事をするよりも、多目に睡眠をとって、良い心持で家事をするほうが、何倍も経済的なのではありませんか?」と言い返して、漱石を閉口させることもしばしばだったという。 慣れぬ結婚生活からヒステリー症状を起こすこともままあり、これが漱石を悩ませ、漱石を神経症に追い込んだ一因とされる。ただ、夫婦仲はそれほど悪くはなかった。漱石が英国留学後に神経症を悪化させ、鏡子や子供たちに対して頻繁に暴力(今日でいうドメスティックバイオレンス)を振るうようになり、周囲から漱石との離婚を暗に勧められた時には、「(漱石が)私の事が嫌で暴力を振るって離婚するというのなら離婚しますけど、今のあの人は病気だから私達に暴力を振るうのです。病気なら治る甲斐もあるのですから、別れるつもりはありません」と、言って頑として受け入れなかったという。 漱石の死後、鏡子が子供たちの前で失言し、それを子供たちにからかわれると「お前達はそう言って、私のことを馬鹿にするけれど、お父様(漱石)が生きておられた時は、優しく私の間違いを直してくれたものだ」と、亡夫・漱石を懐かしむことがしばしばだった。 1927年より、長女・筆子の夫松岡譲が鏡子の談話を筆録した『漱石の思ひ出』が『改造』に連載された。漱石との20年にわたる夫婦生活が赤裸々に語られており、当時は文豪漱石のイメージを傷つけるものとして批判されたが、現在では漱石の実像を知るために欠かせない一級資料として高い評価を得ている。2016年、NHKドラマ『夏目漱石の妻』の原案となった。 1928年5月に熊本へ鏡子と同道した松岡譲が、漱石の第五高等学校教員時代の同僚教授から聞いた話では、鏡子は熊本にきて3年目に慣れない環境と初子の流産のためヒステリー症が激しくなり、藤崎八幡宮近くの白川井川淵に投身自殺を図り、網打ちの漁師に助けられた(警察や新聞には伏せたという)こともあり、しばらく就寝の際、漱石は鏡子と手首に糸をつないでいたという。 漱石が専業の小説家となり、彼を慕う若手の文学者や、かつての教え子たちが毎週木曜に夏目家に集う、いわゆる「木曜会」が開かれるようになると、鏡子は彼らの母親代わりとして物心両面から面倒を見ることもしばしばあった。漱石没後は漱石の月命日である毎月9日に集まる九日会として、1937年まで続いている。 1963年4月18日、大田区上池上町にある自宅で心嚢症候群により死去した。85歳没。葬儀は2日後の20日に自宅で営まれた。戒名は圓明院清操淨鏡大姉。
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