漱石と鷗外
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:44 UTC 版)
望まれぬ末子として江戸の町方名主の家に生まれ、薄幸な少年時代を過した漱石が反官的(国家に反抗する姿勢)な態度を貫いたことに対して、津和野藩典医の長男として早くから家族中の期待と愛情により育てられた森鷗外は死ぬまで大日本帝国陸軍をはじめ国家官僚の職を歴任し、官側の人間であり続けた、という対照がある。夏目漱石は「余裕派」、森鷗外は「高踏派」と呼ばれた。 しかし、その一方では二人とも「自然主義文学の姿勢」とははっきりした距離を保ちながら洋の東西を問わぬ広い知識をもって文学活動を進め、歪んでいく近代化における価値観の主流においても自分たちの認識をしっかりと見据え、後続の文学世代に相応の影響を与えた。 なお、鷗外が1890年から1年ほど過ごし、『文づかひ』などを執筆した千駄木の邸宅は、後にロンドンより帰国した漱石が1903年から約3年居住して『吾輩は猫である』を著した場所でもあったが、現在、同邸は愛知県犬山市の博物館明治村に移築保存されている。
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