漱石との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 06:29 UTC 版)
夏目漱石が帝国大英文科教授を務めていた時の教え子の一人が正文であり、漱石の肉声が録音されていたという管レコードが加計家に残る。 正文は加計家を継ぐため帝大を中退し帰郷していたが、その後も漱石を慕って手紙による交流を続けていた。遠隔の地でも漱石の談話を聞けるようにしたいと思い立ち、銀座十字屋楽器店で蓄音機を購入し、1905年(明治38年)10月27日中川芳太郎とともに漱石のともに訪れ録音した。内容は、教師をしているのは崇高な目的ではなく食うためであること、冗談で一高生にcondorを近藤禿鷹と訳してみせたこと、18世紀の英国政治は理解しがたい面があることが、1分30秒程度で語られている。正文は録音したものを持ち帰り懐かしんで時々聞いていたが劣化して聞き取りにくくなったため1919年(大正8年)蔵の奥にしまった。その後親友の鈴木三重吉や小宮豊隆から頼まれ何度か蔵から出したものの、その時点ですでに聞くことができなかったという。のちに研究機関等で復元が試みられたが、劣化が激しく音声再生の復元は難しいとされている。なお加計家にはこれを含めて5本ろう管レコードが残っており、3本は内容不明、残り1本が三重吉による『潮来節』。 漱石の小説『それから』の主人公・代助の友人の但馬町長のモデルが正文であると言われている。また漱石が正文に宛てた手紙の中に『猫の墓』に登場する墓を建てたことが書かれており、この手紙は加計家で保存されている。 三重吉の小説『山彦』は、三重吉が親友の正文を訪ね加計家の山荘吉水園に滞在したときに構想を練って出来上がった。
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