漢音の普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 14:51 UTC 版)
持統天皇は、唐から続守言を音博士として招き、漢音普及に努めた。また、桓武天皇は延暦11年(792年)、漢音奨励の勅を出し、大学寮で儒学をまなぶ学生には漢音の学習が義務づけられ、また仏教においても僧侶の試験に際して音博士が経典読誦の一句半偈を精査することが行われ、また漢音を学ばぬ僧には中国への渡航が許されなかった。漢音学習者が呉音を日本なまりの発音として「和音」と呼び、由来もはっきりしない発音として「呉音」と呼んで蔑んだように、漢音は正統の中国語音で発音することが求められたものであった。このようなレベルの高さから日常語として定着した呉音を駆逐するような力は持ちえず、江戸・明治にいたるまで漢音が一般に普及することはなかった。 江戸時代には漢字を仮名で書き写す字音仮名遣の研究が始まった。その際には日常的に使われていた呉音よりも最も体系的な字音資料をもつ漢音を基礎として進められた。字書や韻書をもとに漢音がほぼすべての漢字について記述されるようになり、漢音で読まれない漢字はほとんどなくなった。こうして日本語音としての漢音を発音することが可能となり、明治時代、西洋の科学・思想を導入する際の訳語(和製漢語)に使われたことで広く普及することになった。また、和製漢語に使われたことにより、明治期の一時期に漢音での読みが格好の良い、時代の進んだ印象を持たれるようになり、学生を中心に本来は呉音読みする熟語をあえて漢音読みすることが流行した(東京を「トウケイ」と読んだり、関西を「カンセイ(クヮンセイ)」と読んだりする例)。
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