注釈書と批判書
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『穀梁伝』の注釈者は『公羊伝』『左氏伝』ほど多くはなく、『穀梁伝』全てに渉って解釈した注釈書となると、その数は限られている。 注釈書の中で最も基本となるのは、晋の范寧らの『春秋穀梁伝集解』である。これは劉向など漢代以来の注釈を参照し、范寧がその一族とともに造り上げた注釈書であるばかりでなく、現存する『穀梁伝』の注釈書では最も古いものである。『左氏伝』に対する杜預の注釈書である『春秋経伝集解』、『公羊伝』に対する何休の注釈書である『春秋経伝解詁』と並び、三伝の注釈書の中では最高権威に属する。ただし杜預や何休が、自己の奉ずる『左氏伝』『公羊伝』を春秋経に対する唯一の解釈書と見做し、他の二伝の排斥を前提としていたことに比べると、范寧の注釈態度は軟化している。即ち范寧は、春秋の代表的注釈書である『穀梁伝』に、感心する程の注釈書のないことを憂えて自らその作業を行ったというに止まり、『穀梁伝』に対する信奉から注釈を行ったのではない。その為に注釈書の中では『穀梁伝』の誤りを暗々裡に認めるところが散見される。 范寧の『穀梁伝集解』が出て以後、穀梁伝研究は左程進展しないばかりか、辛うじてテキストの保存が可能なだけで、その解釈を伝えるものは絶えていなくなっていた。それでも唐王朝による中国統一と、それにともなく南北経学の統一によって『五経正義』が成立すると、その選定者の一人楊士勛は、改めて范寧等の『集解』に疏(注釈を注釈したもの)を作り、ここに穀梁伝の古注は完成した。十三経注疏の中に入れられる『穀梁伝注疏』は、范寧と楊士勛の注釈を指すことになった。 中唐以後の経学は、『五経正義』を基礎とした漢代以来の注釈研究ではなく、直接経文の研究を志すものとなった。特に春秋学では夥しい研究が生み出された。しかしそこでは春秋学の経文研究が行われ、経文の注釈書たる穀梁伝そのものの研究は却って低調であった。その中にあって、中唐の啖助・趙匡・陸淳らの『春秋集伝辨疑』、北宋の劉敞による『春秋権衡』、南宋の葉夢得の『春秋讞』(穀梁伝讞)、元朝の程端学の『春秋三伝辨疑』は、何れも卓越した穀梁伝研究(批判)を展開した。また孫覚の『春秋経解』は穀梁伝を貴んだものであり、その他の宋人の注釈にも穀梁伝に影響を受けたものが多い。しかしこれは穀梁伝の研究を意味するものではなく、穀梁伝の諸学説を自己の春秋研究に取り入れたという意味に止まるものであった。 清朝に至り、漢学(漢代の経学)の復興が叫ばれ、従前の宋代的経学が否定された。そのため、従来低調であった漢代経学の見直しが計られ、『正義』以前の注釈に注目が集まった。その中で『穀梁伝』も幾ばくかの注目を受けることにはなったが、清朝初期から中頃に隆盛した『左氏伝』、中頃から末期に公羊学派の基本典籍として重視された『公羊伝』に比べ、その注目の度合いは相当低いものであった。清朝の学者として必ずしも著名とは言い難い鍾文蒸の『春秋穀梁経伝補注』が、清代『穀梁伝』研究の代表と見做されている。なお清末の廖平が著した『穀梁春秋経伝古義疏』も有名であり、広い意味での清人十三経注疏の一つに数えられている。 なお日本に於いては、林羅山の訓点本が存在する他、岩本憲司による『穀梁伝』と范寧注との翻訳書『春秋穀梁伝范甯集解』(汲古書院,1988年)が出版された。
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