沿革・出自とは? わかりやすく解説

沿革・出自

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/10 14:00 UTC 版)

野瀬氏」の記事における「沿革・出自」の解説

能勢氏真木)氏と同様に室町戦国期牧野氏(古白・保成等)股肱(ここう)の宿老(あるいは寄騎)である。 多田源氏出自とする能勢氏元来三河吉田(今橋)城主牧野氏寄騎武将であった室町将軍家番衆摂津能勢氏が、初代長岡藩主・牧野忠成高祖父諸説有り)にあたる牧野古白(成時、田左衛門尉利成とも)と、連歌などで交流があり、その一族野瀬丹波守信景が今橋寄騎招かれたと伝えられる牧野古白は、宝飯郡牛窪にあったとされる長山一色城主(豊川市)から、今橋城主(豊橋市)に進出していた。 戦国期以前野瀬能勢)氏については、牛久保城、および牛久保六騎参照松平清康敗れ今橋城落城の節には、享禄2年(1529年)5月28日に、初代能勢丹波討ち死ともいう。『牛窪記』には野瀬氏とあり。その子孫は、牛窪城牧野家属して忠節尽くしたが、永禄9年1566年5月牧野氏徳川家康和睦すると、能勢丹波守は家康指示により牧野家諸士把握する。同永禄9年1566年12月当時若狭国敦賀城所在し足利義昭(後の室町15代将軍、将軍家能勢氏にとっての旧主)に明智光秀働きによって公方衆として参集した武士たちの中に能勢丹波守」の名が見える。 能勢左衛門次男能勢七郎右衛門正信は、なお牧野氏家臣団残っていたが、上州大胡在城時代1590年 - 1618年)に、三郎左衛門馬の儀にて喧嘩となり上州高崎出奔した能勢氏真木氏出奔は、武功家臣が力を失い藩主への権力集中過程象徴受け取れる

※この「沿革・出自」の解説は、「野瀬氏」の解説の一部です。
「沿革・出自」を含む「野瀬氏」の記事については、「野瀬氏」の概要を参照ください。

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