河内三太子とは? わかりやすく解説

河内三太子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 00:52 UTC 版)

太子信仰」の記事における「河内三太子」の解説

叡福寺 叡福寺は、太子墓所とされる叡福寺北古墳墓前寺で、「上之太子」とも呼ばれる創建については、太子らを合葬した際に推古天皇から土地寄進をうけて墓守僧坊建てたことが始まりとする説と、太子追善為に聖武天皇神亀元年(724年)に伽藍建立したとする説の2つが伝わるが、当時史料記録見られ詳細不明である。また寺伝では、嵯峨天皇以来歴代天皇行幸があったと伝えるが、伝承の域を出ない太子廟(磯長廟)は、11世紀中頃以降から『未来記』がたびたび出現し信仰集め承安年間には平清盛寄進伽藍修理された。11世紀後半以降念仏者の参詣集めるようになり、太子と后膳部大郎女と母穴穂部間人皇女合葬される「三骨一廟」が、阿弥陀三尊同一視され太子信仰象徴となった鎌倉時代には嵯峨天皇中宮大宮院遺骨一部修めたとされる宝篋印塔建立された。また、空海良忍証空親鸞叡尊日蓮一遍といった高僧叡福寺参拝している。信長焼き討ち伽藍消失したが、豊臣秀頼によって再興され江戸時代中期には伽藍再建された。現在は単立宗教法人太子宗である。 野中寺 野中寺は、太子の命を受けて蘇我馬子創建したと伝わるが、実際渡来系船氏氏寺として飛鳥時代創建されたと考えられる。別名は「中之太子」。なお、当寺弥勒菩薩半跏像の銘には、丙寅年(666年)の紀年と共に「栢寺智識」と記されており、これを橘寺と読む説もある。 大聖勝軍寺 大聖勝軍寺は、『大聖勝軍寺略縁起』によると丁未の乱の後に戦場跡太子建立したとされるが、平安末期から鎌倉初期ごろに戦場跡伝承地建立され太子堂前身考えられている。「下之太子」とも呼ばれる境内には戦闘太子の命を守ったとされる神妙椋木や、物部守屋の首を洗ったとされる守屋池があり、近辺には物部守屋の墓などの関連史跡もある。鎌倉後期には律院となって興隆した。

※この「河内三太子」の解説は、「太子信仰」の解説の一部です。
「河内三太子」を含む「太子信仰」の記事については、「太子信仰」の概要を参照ください。

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