河内争奪戦とは? わかりやすく解説

河内争奪戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 03:52 UTC 版)

畠山義就」の記事における「河内争奪戦」の解説

実際支配状況はともかく、名目上河内守護と畠山氏当主依然として長のままであり、河内実質領国化している義就に対して幕府は度々追討令を発した効果無く河内大和は義就が実効支配したままであった文明9年からしばらくは平穏であったが、文明14年1482年3月幕府の命を受けた細川政元と政長連合軍が義就追討出陣した。義就は7月16日に政元単独和睦、政元は河内十七箇所摂津欠郡(東成郡西成郡住吉郡)の交換条件自軍撤退させたが、政長は河内留まり義就との抗争継続した。義就は河内から山城国南部侵入、翌文明15年1483年)に南山城掌握し河内の政長方掃討して河内実効支配確立した犬田城の戦い)。ただし、主戦場となった山城では義就・政長の争い膠着状態となって以降業を煮やした国人衆により文明17年1485年)に国人一揆起こり山城国一揆)、畠山両軍撤退要求されたため義就軍は河内引き上げた以後も義就に対して幕府から追討令が出されたが、実行されないまま終わった延徳2年12月12日1491年1月21日)、義就死去享年54。 義就は一時隠居命じられた際に、短期間であるが能登畠山家出身猶子の政国に家督譲ったこともあったが、長男修羅生まれると政国を廃嫡して実家帰し修羅後継とした。しかし修羅は義就より先に文明15年亡くなった。 義就の死後、孫にあたる修羅の子次男の基家(義豊)が後継争ったとされる、義就の家督河内・大和支配は基家が継承した。 政長も河内・大和山城失ったものの、残る紀伊越中国根拠として対抗両者以降畠山氏当主の座を巡って争った

※この「河内争奪戦」の解説は、「畠山義就」の解説の一部です。
「河内争奪戦」を含む「畠山義就」の記事については、「畠山義就」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「河内争奪戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「河内争奪戦」の関連用語

河内争奪戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



河内争奪戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの畠山義就 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS