江戸っ子の概念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 02:02 UTC 版)
多くの研究者は江戸っ子の性格として「見栄坊」「向こう見ずの強がり」「喧嘩っ早い」「生き方が浅薄で軽々しい」「独りよがり」などの点をあげている。また「江戸っ子は三代続いて江戸生まれでなければならない」という概念もよく知られている。また江戸っ子の性格をあらわす表現としては「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し」、「江戸っ子の生まれ損ない金を貯め」という川柳に見られるような「江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ」という金離れの良さを著した言葉がある。現代に見られる類型的な江戸っ子像として「金離れが良く、細かい事にはこだわらず、意地っ張りで喧嘩早く、駄洒落ばかり言うが議論は苦手で、人情家で涙にもろく正義感に溢れる」・「いきでいなせ」などと表現される短気・気が早い、などとも言われ、江戸っ子気質(えどっこかたぎ)などとも呼ばれている。 江戸っ子の研究の先駆者である三田村鳶魚はこうした「江戸っ子」はいわゆる町の表通りに住む「町人」とは異なり、裏店の長屋に住む火消し、武家奉公人、日雇いの左官・大工などが江戸っ子の頭分にあたるとしている。三田村は東海道中膝栗毛や浮世床等で江戸っ子をからかったものが多いのは、こうした「江戸っ子」達が本を読むことがない無学な者であったからとしている。三田村は幕末に至る景気後退の中で、こうした江戸っ子達は徐々に姿を消していったとしている。 1980年(昭和55年)に『江戸っ子』を著した西山松之助は、江戸時代に著された江戸っ子に関する書籍を調査し、江戸っ子を「自称江戸っ子」と「本格の江戸っ子」に分類した。それによると「徳川将軍家のお膝元である江戸に生まれ」、「宵越しの金を使わない」、「乳母日傘で過ごした高級町人」、「市川團十郎を贔屓とし、『いき』や『はり』に男を磨く生きのいい人間」が本格の江戸っ子像であるとし、「喧嘩っ早い」などの性格はこの変形や半面に過ぎないとした。 天明期の戯作者山東京伝は、こうした江戸っ子をデフォルメし「江戸っ子」を自称する人物を作品に登場させた。京伝は1787年(天明7年)発刊の『通言総籬』において、気負いだった空回りする江戸っ子を描き、多くの支持や亜流を産んだ。『通言総籬』には以下のような江戸っ子の口上が記載されている。 金の魚虎(しゃちほこ)をにらんで、水道の水を産湯に浴びて、お膝元に生まれ出でては、拝搗の米を喰って、乳母日傘で長(ひととなり)、金銀の細螺はじきに、陸奥山も卑きとし、吉原本田の髣筆の間に、安房上総も近しとす、隅水(隅田川)の鮊も中落は喰ず、本町の角屋敷をなげて大門をは、人の心の花にぞありける、江戸っ子の根性骨、萬事に渡る日本ばしの真中から・・・(後略) —山東京伝『通言総籬』、 しかし寛政の改革によってこうした著作は反体制的であるとして弾圧された。一方で天明期の戯作の支持者であった魚河岸の魚問屋、札差達は「江戸っ子」概念に誇りを持ち、継承していった。一方で西山は文化文政期になると、下層町民が文化活動に参加するようになり、江戸っ子を自称して空威張りをはじめるようになったとしている。
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