毎日新聞航空部
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1941年、大阪毎日新聞航空部に籍を置くこととなり、ここで名実共に日本一の滑空士志鶴忠夫と出会うことになる。年は若いが有能な島本の素質を見抜き、志鶴は島本を可愛がって助手として身近に置いた。1941年5月18日、生駒山山頂付近に長さ400m、幅120mの滑走場が完成した。 当時は、この滑空場から発航して滑空し盾津の飛行場着陸するのが一般的で、着陸した機体は生駒山のケーブルカーが営業を終えたあと、分解された機体をケーブルカーの軌道を利用して運び上げるという困難で辛い作業だった、おまけに時間が掛かりすぎていた。当時のグライダーは滞空時間を延ばすためには、冬の限られた時間と気圧配置に左右されていた。ベストシーズンに何とか発航回数を増やしたい志鶴は、奥の手を考え島本に指示し実行した。 その計画は、盾津飛行場に降りてきた機体をそのまま飛行機曳行で発航、空中列車状態で生駒山上空で切り離し、生駒山滑空場に着陸させようとの計画であった。一見良い計画のようで島本真も、滑空機で飛びたい一心で計画は実行されたが、生駒山上空の気流は不安定で、簡単に生駒滑空場に着陸する事は出来なかった。全く命がけの飛行で、島本真は何とか生駒山滑空場に着陸することが出来たがこの1回のみで、そののち飛行機曳行での滑空機搬送は行われなかった。 又、志鶴忠夫は、自動車によるグライダーの曳航発航において日本最初の滑空士であった。1935年(昭和10年)6月6日、志鶴忠夫搭乗の九大阿蘇号により機首に直径3mm、長さ200mのワイヤーロープを用い自動車に連結、凧あげの要領で高度70 - 80m上昇したところで曳索から離脱し自由滑空の後に着陸した。これが日本帆走飛行連盟が盾津陸軍飛行学場で行った日本初の自動車曳行による滑空機発航の成功となった。 同年6月18日日本帆走飛行連盟は大毎航空部員、松下弁二飛行士搭乗の一三式陸上練習機(国粋義勇飛行隊、第23号機)と志鶴忠夫搭乗の阿蘇号を直径3mm、長さ150mのワイヤーロープで連結し午後3時29分盾津飛行場を離陸空中列車状態で250mの高度を保ち大阪方面へと飛行、城東練兵場から天守閣の南を横切り北浜、道頓堀の上空を通過再び盾津飛行場に帰り上空で曳航索を切り離し阿蘇号は3時55分着陸した。飛行時間、26分でこれも又志鶴忠夫滑空士が達成した日本初の飛行機によるグライダーの発航、空中列車状態での曳航飛行であった。
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