毎日新聞航空部とは? わかりやすく解説

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毎日新聞航空部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 02:31 UTC 版)

島本真」の記事における「毎日新聞航空部」の解説

1941年大阪毎日新聞航空部籍を置くこととなり、ここで名実共に日本一滑空士志忠夫と出会うことになる。年は若いが有能な島本素質見抜き、志島本可愛がって助手として身近に置いた1941年5月18日生駒山山頂付近長さ400m、幅120m滑走場が完成した当時は、この滑空場から発航して滑空し盾津飛行場着陸するのが一般的で、着陸した機体生駒山ケーブルカー営業終えたあと、分解され機体ケーブルカー軌道利用して運び上げるという困難で辛い作業だった、おまけに時間掛かりすぎていた。当時グライダー滞空時間を延ばすためには、冬の限られた時間気圧配置左右されていた。ベストシーズンに何とか発航回数増やしたいは、奥の手考え島本指示し実行した。 その計画は、盾津飛行場降りてきた機体そのまま飛行機曳行発航空中列車状態で生駒山上空切り離し生駒山滑空場に着陸させようとの計画であった一見良い計画のようで島本真も、滑空機飛びたい一心計画実行されたが、生駒山上空気流は不安定で、簡単に生駒滑空場に着陸する事は出来なかった。全く命がけ飛行で、島本真は何とか生駒山滑空場に着陸することが出来たがこの1回のみで、そののち飛行機曳行での滑空機搬送行われなかった。 又、志忠夫は、自動車によるグライダー曳航発航において日本最初滑空であった1935年昭和10年6月6日、志忠夫搭乗九大阿蘇号により機首直径3mm、長さ200mワイヤーロープ用い自動車連結、凧あげの要領で高度70 - 80m上昇したところで曳索から離脱し自由滑空の後に着陸した。これが日本帆走飛行連盟盾津陸軍飛行学場で行った日本初自動車曳行による滑空機発航成功となった同年6月18日日本帆走飛行連盟大毎航空部員、松下弁二飛行士搭乗一三陸上練習機国粋義勇飛行隊、第23号機)と志忠夫搭乗阿蘇号を直径3mm、長さ150mワイヤーロープ連結し午後3時29盾津飛行場離陸空中列車状態で250mの高度を保ち大阪方面へと飛行城東練兵場から天守閣の南を横切り北浜道頓堀の上空を通過再び盾津飛行場帰り上空曳航索を切り離し阿蘇号は3時55着陸した飛行時間26分でこれも又忠夫滑空士が達成した日本初飛行機によるグライダー発航空中列車状態での曳航飛行であった

※この「毎日新聞航空部」の解説は、「島本真」の解説の一部です。
「毎日新聞航空部」を含む「島本真」の記事については、「島本真」の概要を参照ください。

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