『ニッポン』号、のち改名『明星』
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「島本真」の記事における「『ニッポン』号、のち改名『明星』」の解説
1939年8月26日羽田空港を飛び立った毎日新聞社有航空機「ニッポン」は、世界一周に成功(航程52,886㎞、所要時間194時間)した。大阪毎日新聞社航空部長大原武夫を親善団長に、機長中尾純利、副操縦士吉田重雄、機関士・通信士八百川長作、通信士下川一、技術員佐伯弘、通信士佐藤信貞、以上七名の乗り組みで日本人初の二大洋無着陸横断となる。「ニッポン」が世界一周飛行中、ヨーロッパで第二次大戦の戦端が開かれ、2年後には日米の開戦と続く。『ニッポン』という機体名は、全国の公募で決まり、同時に、『世界一周大飛行の歌』がレコードになり流行した。 日本号は本庄季朗設計で、三菱内燃機在職時に、海軍の依頼で偵察機として設計された。完成機は、航続距離や安定性など高い性能を示し、九六式陸攻として採用された。同時に軍用装備のない輸送機として作られたのがニッポン号で、後に明星と名前を変えた。世界一周した当時の銀色の機体は、戦時下のため塗り替えられている。 1941年後半から毎日新聞航空部に在籍していた島本真は、『ニッポン』が『明星』と名を変えた毎日新聞社有機に乗組員として搭乗した。その後島本は1944年、応召により軍務に付いた。 島本真、毎日新聞「ニッポン」改め「明星」乗り組みのとき 世界1周のニッポン号の前で 銀色だったニッポン号が戦時下の影響なのか塗り替えられている 天蓋を開いた珍しい写真(右島本)
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