殖産策のゆくえ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 08:23 UTC 版)
蚕種に関する関喜内の策の採用にあたっては、慎重派の消極姿勢にいら立つ関に対し金が蚕種試作を成功させてそれをアピールするよう指示し、それを受けた関が数か月で伊達郡から養蚕技術者をまねいて上等の蚕種をつくったことが功を奏した。介川・瀬谷ら慎重派も同意し、牛島新田村も関案を承諾した。殖産派は開始後わずか5年で3,000石の桑畑をひらいたと豪語し、茶畑や楮畑も桑畑に転換させた地があったといわれる。しかし、久保田町奉行の橋本秀実は関のやり方ではかえって害が大きいと批判し、領民の自発的な殖産意識を引き出すことこそ重要だと指摘した。また、最大の蚕市場である関東地方では販売不振がつづき、そのため蚕種方役所の赤字も6年後には1万両をかかえるに至った。 殖産興業をめぐる藩論対立は再燃した。桑畑取り立ての領内巡見をおこなった久保田藩家老の小瀬又七郎さえもが関の仕法拡大路線に疑念をいだくようになっていた。この対立は結局、養蚕座経営の民営化という妥協案で解決された。領民各位の自発性を重視する穏健な殖産路線というところに落ち着いたわけである。しかし、これは藩内における各地域の明暗を分けることとなった。 関喜内の地元の川連には、山野を切り開いて桑畑にした結果、生糸・真綿の大金が入るようになって百姓たちは喜んでいるという記録があり、かつて年貢を納入することができないほど困窮にあえいだ雄勝郡12か村では年貢不納がなくなり、先祖伝来の田地を守ることができたとして関の功績をたたえている。また、隣接する稲庭村(湯沢市稲庭町)の平右衛門、雄勝郡西馬音内堀廻村(羽後町)の七右衛門、今宿村(横手市雄物川町)の文兵衛らも養蚕に精を出したことで藩家老からの激励を受けた旨の記録がのこっている。さらに、秋田郡横淵村(北秋田市)の常右衛門は、郡奉行の指導を契機に伊達郡や上野国の養蚕師・機師を招聘してその技術によって資産をきずき、周辺の阿仁や比内へも自己資金で蚕種の普及をはかったといわれる。北秋田の地では、年産繭200石、絹織物1,500両分を産出するまでの大産業に育った。 勘定奉行の金易右衛門は、従来ならば米価高になるとすぐに助成願いを出していた村々が、養蚕仕法を開始した現今では簡単に苦しいなどとは言わなくなったと天保2年(1831年)段階で述べている。関喜内の上申した養蚕仕法の開始によって家計に弾力性が生まれ、米価高騰にも耐えられるようになっていたのである。 天保8年(1837年)6月23日に死去した。79歳であった。
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