殖産策の上申とは? わかりやすく解説

殖産策の上申

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 08:23 UTC 版)

関喜内」の記事における「殖産策の上申」の解説

宝暦9年1759年6月1日出羽国久保田藩雄勝郡川連村現秋田県湯沢市川連町)に生まれる。家は川連村村役人務めた川連村肝煎であった関喜内久保田藩の絹方御用掛に抜擢されたのが文政2年1819年)のことであった。喜内は翌文政3年1820年)、養蚕・製糸業の積極的な振興をはかる案を勘定奉行金易右衛門(こん やすえもん)に提案した従来久保田藩では良質蚕種をつくる技術がなかったために陸奥国伊達郡現福島県伊達郡)から蚕種移入しており、そのために膨大な蚕種代金領外流出しまた、領内産出した絹糸も、領外商人の力が強く買いたたかれることが多かったので養蚕農家は必ずしもそれによって潤うことが少なかった。そのため、先進技術導入して領内上質蚕種をつくる技術育成し絹糸販売主導権領内商人掌握できるような体制整備すべきであるというのが関の殖産策の内容であった。 この殖産策における桑畑開発第一候補となったのは河辺郡牛島新田村(現秋田市)、第二候補は同郡藤森(同)であったが、両からいったんは拒否されている。これは両従来生業維持継続したいためであったが、勘定奉行なかでも関に理解を示す金に対し、金の同僚である介川東馬(すけがわとうま)や瀬谷小太郎(せやこたろう)などは牛島新田村藤森見解共感示したこのため藩論はなかなか一致せず関喜内の策が採用されたのは上申6年後の文政9年1826年)のことであったこの年佐竹氏領主とする久保田藩領内各地養蚕座を設け養蚕・製糸過程組織化乗り出し、喜内は養蚕支配人登用された。また、これに前後して当局絹織座を設置している。

※この「殖産策の上申」の解説は、「関喜内」の解説の一部です。
「殖産策の上申」を含む「関喜内」の記事については、「関喜内」の概要を参照ください。

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