殖産策の上申
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宝暦9年(1759年)6月1日、出羽国久保田藩領雄勝郡川連村(現秋田県湯沢市川連町)に生まれる。家は川連村の村役人を務めた。 川連村の肝煎であった関喜内が久保田藩の絹方御用掛に抜擢されたのが文政2年(1819年)のことであった。喜内は翌文政3年(1820年)、養蚕・製糸業の積極的な振興をはかる案を勘定奉行金易右衛門(こん やすえもん)に提案した。従来、久保田藩では良質の蚕種をつくる技術がなかったために陸奥国伊達郡(現福島県伊達郡)から蚕種を移入しており、そのために膨大な蚕種代金が領外に流出し、また、領内で産出した絹糸も、領外商人の力が強く買いたたかれることが多かったので養蚕農家は必ずしもそれによって潤うことが少なかった。そのため、先進技術を導入して領内で上質の蚕種をつくる技術を育成し、絹糸販売の主導権も領内商人が掌握できるような体制を整備すべきであるというのが関の殖産策の内容であった。 この殖産策における桑畑開発の第一候補となったのは河辺郡牛島新田村(現秋田市)、第二候補は同郡藤森村(同)であったが、両村からいったんは拒否されている。これは両村が従来の村の生業を維持・継続したいためであったが、勘定奉行のなかでも関に理解を示す金に対し、金の同僚である介川東馬(すけがわとうま)や瀬谷小太郎(せやこたろう)などは牛島新田村・藤森村の見解に共感を示した。このため藩論はなかなか一致せず、関喜内の策が採用されたのは上申6年後の文政9年(1826年)のことであった。この年、佐竹氏を領主とする久保田藩は領内各地に養蚕座を設け、養蚕・製糸過程の組織化に乗り出し、喜内は養蚕方支配人に登用された。また、これに前後して藩当局は絹織座を設置している。
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