歩みの会
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1995年4月の統一地方選挙埼玉県議会議員選挙において当選した連合埼玉(連合埼玉の会)及び埼玉民社協会推薦議員合計6名によって「連合歩みの会」が結成される。代表笠原英俊(日本社会党を離党。連合埼玉の会公認)。所属議員は野木実・山根隆治(以上連合埼玉の会公認・埼玉民社協会推薦)・渡辺千代子(連合埼玉の会公認)・武正公一(日本新党を経て無所属)・竹並万吉(無所属)。 県議会では「フロンティア」・社会党(1996年1月から社会民主党)と並び第3会派となり、交渉会派となる。土屋知事の与党会派として活動。 1996年9月、社民党県議の藤井俊男・秦哲美が民主党の結成に参加。社民党を離党し、同党県議団から離脱。同年12月、「連合歩みの会」に入会。「連合歩みの会・民主議員団」と改称し、民主党系会派へと移行。8議席となる。 1997年6月、民主党会派化を嫌って竹並が離団。7議席となる。同年9月、竹並は自民党に入党し、同党の会派に入った。 1998年7月、藤井が第18回参議院議員通常選挙に立候補し当選。県議補欠選挙で「市民の力を県政に生かす会」所属で民主党推薦の高橋努が当選。高橋は「連合歩みの会・民主議員団」に加わり、7議席を維持。 1999年4月の統一地方選挙埼玉県議会議員選挙において現職7名は連合埼玉などの推薦を受け、全員が再選。会派名を「歩みの会・民主議員団」と改めた。団長笠原英俊(連合埼玉の会公認)・野木実(連合埼玉の会公認・のち埼玉民社協会会長)・山根隆治(連合埼玉の会公認・埼玉民社協会推薦・ただし民主党籍もあり民主党県連幹事長)・秦哲美・高橋努(以上民主党公認)・武正公一(無所属・民主党推薦・連合埼玉推薦)・渡辺千代子(無所属)。更に社民党所属現職ながら公認申請せず無所属で立候補し当選した岡真智子と新人の当麻好子(民主党公認・元日本社会党所沢市議)が会派に加わり9議席となった。議席数で「フロンティア」を上回り、自民党・公明党・共産党に次ぐ第4会派となった。交渉会派の地位を維持し、土屋知事の与党会派として活動した。 2000年6月、武正が第42回衆議院議員総選挙に転出し当選。8議席となる。 1999年4月の埼玉県議会議員選挙において社民党公認候補が全員落選し、会派が消滅したことから、連合埼玉や埼玉民社協会は所属・推薦議員による統一会派結成を模索していたが、2000年12月、「フロンティア」代表の松本安弘が「歩みの会・民主議員団」に入団。「フロンティア」は解散し、非自民・非共産・民主党・連合埼玉系列議員会派が一本化された。9議席となる。 2001年4月、岡が社民党を離党、翌月さいたま市長選に立候補し落選(2003年4月、さいたま市議会議員選挙に転じ当選。2007年4月再選)。8議席となる。 2001年5月、野木が和光市長選挙に立候補し当選。県議補欠選挙では当時民主党衆議院議員だった上田清司後援会の選対本部長を務めた神杉一彦(民主党公認)が当選。神杉は「歩みの会・民主議員団」に加わり、8議席を維持。 2001年6月、自民党県議穂坂邦夫が志木市長選挙に出馬し当選。県議補欠選挙で再び当選した長沼明(無所属)が「歩みの会・民主議員団」に加わり、9議席となる。 2001年6月、山根が第19回参議院議員通常選挙に転出し当選。2001年7月の県議補欠選挙で矢部節(民主党公認・元川越市議会議長(自民系)・自民党衆議院議員小宮山重四郎の元秘書)が当選し会派入り。9議席を維持。 2001年11月、自由党籍無所属で活動していた船津徳英が入会し10議席となる。 2002年9月、船津が鳩ヶ谷市長選に立候補(無所属・自由党推薦)するも落選。9議席となる。
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