武上監督時代
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「東京ヤクルトスワローズ」の記事における「武上監督時代」の解説
1980年 武上四郎が球団初の生え抜きとして監督に就任。相性優先のローテーションで巨人・中日・阪神・大洋から15勝以上挙げるが、広島に大きく負け越し。結局この年優勝した広島に大差をつけられての68勝52敗10分けの勝率.567、2位に終わる。松岡が最優秀防御率のタイトルを獲得。 1981年 マニエルが近鉄から復帰し優勝への期待が高まるが、マニエルは年齢的な衰えで12本塁打に止まり、さらに若松、スコットが相次いで負傷し外野陣が崩壊、出場機会が大幅に増えた代走・守備固め専門の青木実が盗塁王を獲得したが、チームは56勝58敗16分け勝率.491の4位に終わる。シーズン終了後に安田が引退。 1982年 優勝当時の主力である大杉、大矢明彦、松岡らの衰えと外国人選手ラリー・ハーローらの不振からシーズン序盤より最下位を独走。最終結果は45勝75敗10分け、勝率.375で首位の中日と23.5ゲーム離される。 1983年 ドラフトにて巨人との抽選の末入団交渉権を獲得した荒木大輔が入団し、近鉄とのトレードで井本隆を獲得する。しかし、チームは井本や松岡、ボビー・マルカーノらの不振もあり、53勝69敗8分けの勝率.434にて2年連続最下位に終わった。シーズン終了後に大杉が現役引退。 1984年 4球団競合の末ドラフト1位で獲得したルーキーの高野光が開幕投手に大抜擢され話題となったが、開幕からチームは不振が続く。武上がシーズン途中で監督休養、中西太が代理監督に就任するが中西も途中休養。投手コーチだった土橋正幸がシーズン終了まで代理監督を務めた(その後土橋は、正式に監督に就任)。この年、チームは51勝71敗8分けの勝率.418の5位となり、辛くも最下位を免れる。 土橋監督時代 1985年 明治大学の主砲広沢克己(後に広澤克実)を獲得。杉浦享が自己最多の34本塁打、八重樫幸雄も捕手として球団初の3割打者と活躍したがチームはシーズン早々から首位戦線から1チームだけ脱落し、神宮で阪神に優勝を決められ、結局46勝74敗10分け勝率.383の最下位。10月9日に若松が2000本安打を達成。シーズン終了後に優勝バッテリーの松岡と大矢明彦が共に引退。同年、日本プロ野球選手会は労働組合の資格を得たが、オーナーの松園尚巳は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組を結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会を労組選手会から脱退させた。 1986年 マルカーノに代わり大洋を自由契約になったレオン・リーが入団するが、この年もシーズン早々から首位戦線を脱落。2年続けて神宮で優勝を決められ、49勝77敗4分けの勝率.389と2年連続の最下位となり土橋は辞任。
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