武上監督時代とは? わかりやすく解説

武上監督時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 10:07 UTC 版)

東京ヤクルトスワローズ」の記事における「武上監督時代」の解説

1980年 武上四郎球団初の生え抜きとして監督就任相性優先ローテーション巨人中日阪神大洋から15勝以上挙げるが、広島大きく負け越し結局この年優勝した広島大差つけられての685210分け勝率.567、2位に終わる。松岡最優秀防御率タイトル獲得1981年 マニエルが近鉄から復帰し優勝への期待が高まるが、マニエルは年齢的衰え12本塁打止まり、さらに若松スコット相次いで負傷し外野陣が崩壊出場機会大幅に増えた代走守備固め専門青木実盗塁王獲得したが、チーム565816分け勝率.491の4位に終わる。シーズン終了後安田引退1982年 優勝当時主力である大杉大矢明彦松岡らの衰え外国人選手ラリー・ハーローらの不振からシーズン序盤より最下位独走最終結果457510分け勝率.375で首位中日と23.5ゲーム離される1983年 ドラフトにて巨人との抽選の末入団交渉獲得した荒木大輔入団し近鉄とのトレード井本隆獲得する。しかし、チーム井本松岡ボビー・マルカーノらの不振もあり、5369敗8分け勝率.434にて2年連続最下位終わったシーズン終了後大杉現役引退1984年 4球団競合の末ドラフト1位獲得したルーキー高野光開幕投手大抜擢され話題となったが、開幕からチーム不振が続く。武上がシーズン途中監督休養中西太代理監督就任する中西途中休養投手コーチだった土橋正幸シーズン終了まで代理監督務めたその後土橋は、正式に監督就任)。この年チーム5171敗8分け勝率.418の5位となり、辛くも最下位免れる土橋監督時代 1985年 明治大学主砲広沢克己(後に広澤克実)を獲得杉浦享自己最多34本塁打八重樫幸雄捕手として球団初の3割打者活躍したチームシーズン早々から首位戦線から1チームだけ脱落し神宮阪神優勝決められ結局467410分け勝率.383の最下位10月9日若松2000本安打を達成シーズン終了後優勝バッテリー松岡大矢明彦が共に引退同年日本プロ野球選手会労働組合資格得たが、オーナー松園尚巳は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会労組選手会から脱退させた。 1986年 マルカーノ代わり大洋自由契約になったレオン・リー入団するが、この年シーズン早々から首位戦線脱落2年続けて神宮優勝決められ4977敗4分け勝率.389と2年連続最下位となり土橋辞任

※この「武上監督時代」の解説は、「東京ヤクルトスワローズ」の解説の一部です。
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