樊城の戦いと最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:14 UTC 版)
「樊城の戦い」も参照 建安23年(218年)、侯音は宛で曹操に対して反乱を起こし、関羽と手を結んだ。建安24年(219年)春正月、曹操の部将の曹仁と龐徳は宛を陥落させ、侯音を斬った。 同年秋、関羽ら群臣らが劉備を漢中王に推挙した。劉備が漢中王を称するようになると、関羽は前将軍・仮節鉞に任じられた。 同年、子の関平・都督の趙累らと共に樊城を守る曹仁を攻撃した。曹仁の援軍として、七軍の指揮を執っていた于禁が駆けつけたが、折からの悪天候により大洪水が起こり、七軍は水没した。関羽は船団を指揮して攻撃をかけ、于禁と彼が指揮を執っていた3万の兵を降伏させ、さらに樊城の北に駐屯していた龐徳を斬った。また、このとき荊州刺史の胡修・南郷太守の傅方(中国語版)らが関羽に降っている。関羽は樊城を完全に包囲し、別将を派遣して呂常が守る襄陽までも包囲した。さらに関羽は方々に印綬をばら撒き、梁・郟・陸渾といった曹操領内の群盗などが一斉に蜂起し、中原は震動した。同時に勢いに乗じた関羽は上庸の劉封・孟達に援軍を求めたが、上庸が安定していないことを理由に拒絶された(『三国志』蜀志「劉封伝」)。 曹操はこの事態に狼狽し遷都まで考えるほどであったが、曹操の配下の司馬懿と蔣済は于禁を弁護し、これ以前に和議を結んでいた孫権を利用して、長江南を領有することを条件に関羽を背後から攻撃させる策を提案し、曹操は孫権と密約を結んだ。その一方で、徐晃を派遣して曹仁を救援させた。これにより関羽は、逆に曹・孫両軍に挟撃されてしまうことになる。曹操の配下の董昭は曹操に「樊城の将兵の士気を高めるためと、関羽の我が軍への戦意を喪失させるために、孫権が殿と同盟を結び関羽の背後を攻めることを、樊城の我が軍と関羽に漏らすべきです」と提案した。曹操はこの提案に従い、徐晃を介して樊城の曹操軍と関羽軍に孫権参戦の情報を伝えさせた。この情報を聞いた樊城の曹操軍の士気は大いに上がった。 関羽は孫権への備えを当初はおこたらず、長江沿いに守備兵を置いていたが、呂蒙が病気と称して前線を離れたこと、さらに後任として陸口に派遣されてきた陸遜の謙った手紙にあっさり煽てられ警戒を解き、江陵・公安からさらに兵・物資を前線に送ってしまったという(『三国志』呉志「呂蒙伝」、「陸遜伝」)。さらに孫呉討滅の恫喝、于禁ら降伏した曹操軍の捕虜3万を養う為に孫権軍の軍需物資を強奪したこともあった(『三国志』呉志「呂蒙伝」) 孫権は呂蒙・陸遜らに命じて関羽への攻撃を開始した。劉備は糜芳に南郡を、士仁に公安を守備させていたが、両者は関羽との仲に隙があり、其処に着目した呂蒙は両者に誘いをかけ寝返らせ、関羽の拠点たる江陵・公安を奪った。その後も陸遜らの働きで荊州の劉備領は次々に攻略されていった。 関羽は襄陽・樊城を落とせぬまま、徐晃に攻撃を受けて敗れ樊城の包囲を解いた。 その後、孫権は関羽軍の輜重を奪ったが、それを聞いた関羽は襄陽の包囲も解き、撤退した 関羽は、使者を何度も呂蒙の元に送り連絡をとろうとしたが、呂蒙はそのたびごとに関羽や関羽の部下の妻子たちを捕虜にして厚遇していることをわざと使者に知らせた。使者の口からこのことを知った関羽の部下たちは敵対心を失って、やがて関羽の軍は四散し、大半の将兵が孫権軍に降伏した(『三国志』呉志「呂蒙伝」)。 関羽は当陽まで引き返したのち、孫権が江陵に自ら軍を率いてきていることを知り、西の麦城に逃走した (『三国志』呉志「呉主伝」「呂蒙伝」)。孫権から降伏を勧告する使者が派遣されてくると、関羽は降伏を受けるふりをして逃走した(『三国志』呉志「呉主伝」)。しかし219年12月、臨沮において関羽は関平らと共に退路を断たれ、捕虜となり斬首された。
※この「樊城の戦いと最期」の解説は、「関羽」の解説の一部です。
「樊城の戦いと最期」を含む「関羽」の記事については、「関羽」の概要を参照ください。
- 樊城の戦いと最期のページへのリンク