樊城解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 09:05 UTC 版)
樊城では長雨のために城壁が水没し、関羽が水軍を使って兵糧攻めを行なっていたために食糧も尽きかけていた。ある者が曹仁に撤退を進言したが、満寵はこれに反対し、曹仁は満寵の判断を支持した。 曹操は新たに趙儼・徐晃ら5万の軍勢を援軍として送り込む。徐晃の軍は新兵中心の編成のうえ寡兵であった為、趙儼の意見に基づき、独力での攻撃は行なわず更なる援軍を待ちつつ地下道などを用いて曹仁との連絡を取った。徐商・呂建らが更なる援軍として到着すると、徐晃は攻勢に移った。徐晃はまず偃城の奪取を目論見、塹壕を掘って背後から攻めると見せかけた。偃城の守備隊はこれを恐れて屯営を焼き払い撤退したので徐晃は偃城を無血で確保することが出来た。その後も、曹操は徐晃に援軍5万の追加派遣を行ない、さらに合計12の屯営の兵が徐晃の指揮下に入った。于禁が関羽に降伏した後、曹操の樊城・襄陽への援軍が小出しであったことは、定軍山の戦いの敗北、于禁ら七軍の全滅から魏軍が立ち直るのに時間がかかっていたという事情が伺われるところである。 関羽は囲頭や四冢に屯営を置いていが、徐晃は四冢を次なる攻撃目標に選択した。徐晃は囲頭を攻撃すると情報を流した後に油断している四冢を攻撃した。関羽は四冢の屯営が攻撃を受けているのを見ると、自ら歩兵騎兵合わせて5000人の指揮を執り徐晃に野戦を挑んだ。徐晃はこれを打ち破った。関羽は退却したが、徐晃は深くこれを追撃し、幾重にも設置された塹壕や逆茂木を総て突破し、関羽の包囲網に大損害を与えた。 関羽は徐晃に敗れたので樊城から撤退せざるを得なくなったが、襄陽の包囲は続けた。しかし、関羽は輜重を孫権に奪われたことを知り、襄陽の包囲を解いて僅かな兵力をまとめて退却した。
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