構造論への発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/23 13:54 UTC 版)
1852年にエドワード・フランクランドは有機金属化合物を合成し、その際に有機金属化合物中に含まれるアルキル基の数が対応する金属ハロゲン化物や水素化物のハロゲンや水素の数と同じになることに気づいた。そして型が存在する理由はそれぞれの原子が取りうる一定の飽和能(原子価)が存在するためと指摘している。しかしフランクランドは根の説を支持していたために、その指摘は型の説の支持者の耳にはほとんど入らなかったようである。一方、根の説に対しもっとも影響力を持っていたヘルマン・コルベはフランクランドの考えは型の説の範疇に属するとして、しばらくの間反対していた。 フランクランドより2年遅れて、ケクレは硫化水素の型を発見した際に、水の型に分類される酢酸を五塩化リンで処理すると型が変わり、塩化水素の型の塩化アセチルと塩化水素が、一方五硫化リンで処理すると水の型(硫化水素の型)を保ったチオ酢酸が得られることを見出した。ケクレはこの違いを酸素と塩素では親和力(原子価)が異なり、酸素と硫黄では親和力が等しいためと考えた。このようにして型と原子価が結び付けられた。 1855年にオドリングはメタンの型の概念をジェラールの型の理論に追加した。1857年にケクレは雷酸水銀の研究の報告の中で、クロロホルムやアセトニトリルなどがメタンの型に分類できることを示した。このメタンの型は今までのジェラールの4つの型とは異なり、むしろデュマの機械型の概念に近い。ジェラールの型は中心原子の水素をアルキル置換やアシル置換することにより生成する誘導体を1つにまとめたものだが、このメタンの型は水素は1価の根や原子ならどのようなものでも置換できると解釈している。 1858年にケクレは今までの型についての議論を総括し、型が原子価を表していることを再確認した。また、型の中に現れるアルキル根やアシル根は炭素同士が互いに結合して、余った原子価に水素原子が結合し、それでもまだ余っている原子価が型の中心をなす酸素原子や窒素原子と結合しているという描像を示した。こうして現在の有機化学で用いられている構造論の基礎が出来上がったのである。しかしケクレは、ジェラールと同様に自身の用いた型の式が分子内の原子の配列を反映しているとは考えていなかった。型の式を分子内の原子の配列と結びつけたのは、ケクレとは独立に炭素同士の結合を提案したアーチボルド・クーパーやクーパーの友人であったアレクサンドル・ブトレロフである。 ケクレは1870年代に幾何異性体や鏡像異性体の問題が生じてから、この考えを受け入れるようになった。一方、コルベは直接的な実験的証拠がなかった原子同士の結合の考え方を受け入れず、死ぬまで構造論に反対した。しかしフランクランドやコルベの弟子たちは構造論へと転向し、有機化合物の構造に関する見解が統一されたのである。
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