松平輝高
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保10年8月29日(1725年10月5日) |
死没 | 天明元年9月25日(1781年11月10日) |
墓所 | 埼玉県新座市野火止の平林寺 |
官位 | 従五位下、佐渡守、因幡守、右京亮、従四位下、侍従、右京大夫 |
幕府 | 江戸幕府寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中 |
藩 | 上野高崎藩主 |
氏族 | 大河内松平家 |
父母 | 父:松平輝規 |
妻 | 正室:兼(松平信祝の娘) 継室:幸(松平信祝の娘) |
子 | 輝行、輝和、輝延、永(柳沢保光正室) |
松平 輝高(まつだいら てるたか)は、江戸時代中期の上野高崎藩主。寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中を歴任。高崎藩大河内松平家4代。
生涯
高崎藩初代藩主・松平輝規の長男。京都所司代在任中、竹内敬持を逮捕した(明和事件、宝暦事件)。同年老中にのぼり、安永8年(1779年)、松平武元の死去に伴い老中首座となり、勝手掛も兼ねる。天明元年(1781年)、輝高が総指揮をとり、上州の特産物である絹織物や生糸に課税を試み、7月、これを発表したところ、西上州を中心とする農民が反対一揆・打ちこわしを起こし、居城高崎城を攻撃するという前代未聞の事態に発展した(絹一揆)。幕府は課税を撤回したが、輝高はこの後、気鬱の病になり、将軍家治に辞意を明言するも慰留され、結局老中在任のまま死去した。これ以降、老中首座が勝手掛を兼務するという慣例が崩れることになる。長男の輝行が早世したため、次男の輝和が家督を相続した。
官歴
- 元文元年(1736年)12月15日:御目見(将軍:吉宗)
- 延享2年(1745年)閏12月16日:従五位下佐渡守
- 延享4年(1747年)11月15日:因幡守
- 寛延2年(1749年)2月9日:家督、12月18日:奏者番
- 寛延4年(1751年)1月15日:兼寺社奉行、右京亮
- 宝暦2年(1752年)4月7日:大坂城代、従四位下右京大夫
- 宝暦6年(1756年)5月7日:京都所司代、侍従
- 宝暦8年(1758年)10月18日:老中
- 安永8年(1779年)7月28日:勝手掛老中、12月15日:加増10,000石
- 天明元年(1781年)9月25日:卒去
系譜
父母
- 松平輝規(父)
正室、継室
- 兼(正室) - 松平信祝の娘
- 幸(継室) - 松平信祝の娘
側室
- 林氏
- 大川氏
子女
脚注
固有名詞の分類
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