東濃鉄道の設立
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1900年(明治33年)、後に中央本線(中央西線)となる官設鉄道が名古屋から可児郡豊岡町まで延伸し、同地に多治見駅が開業すると、ルートから外れた可児郡北部では多治見駅とを鉄道で結ぶ計画が持ち上がった。1912年(大正元年)には平井信四郎(地元酒造業者、可児郡上之郷村村長)他、地元有力者が中心となって多治見駅と御嵩とを結ぶ東濃鉄道の鉄道免許申請が行われた。創立趣意要項によれば旅客輸送のほか、御嵩の亜炭、薪、藁、石材の貨物輸送が考えられ、さらに木曽川上流から錦織(八百津)に流れ着く木材の輸送を筏から鉄道に変えることも計画されていた。 申請は同年12月18日に認可されたが、政府が将来多治見 - 太田間に鉄道を敷設する必要が生じた場合、国による会社買収(国有化)を認めることが条件とされた。認可を受け発起人らは早速株の募集を始めたが、同年の天候不良による旱魃や第一次世界大戦勃発に伴う米価や生糸市場の暴落によって募集は捗らなかった。会社は1915年(大正4年)に設立されたが、予定された資本金45万円が集まらないことから35万円に減額し、鉄道の規格も2呎6吋(762mm)の軽便鉄道に変更された。建設工事はまず多治見 - 広見間が1917年(大正6年)から始まり、翌年に竣工、営業が開始された。その後、1918年(大正7年)から広見 - 御嵩間の延長工事が行われ、1920年(大正9年)8月に開業した。 軽便鉄道規格であるため速度が出ず、時には坂で列車が止まり乗客が押すこともあったというが、それでも当時兼山 - 多治見間を運行していた定期馬車よりは速く、利用者の評価は賛否両論であった。建設費を抑えたこともあって営業成績は良好で、1920年(大正9年)以降は株式配当が10%となる会計期間も少なくなかった。
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