東映のその後の動き
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東映はその1956年に警視庁物語シリーズをスタートさせた。上映時間が60分前後、モノクロ、ドキュメンタリータッチ、そしてスター俳優は無く、ロケーション中心でアップテンポな展開で、1956年2月18日公開の「逃亡5分前」から以後1964年「行方不明」まで24本が製作された。歯切れのいい畳み込むようなテンポで新鮮な画面が生まれて、後に1961年に東映が製作して当時のNET(現テレビ朝日)で放映された日本初の1時間テレビ映画「特別機動捜査隊」に受け継がれていく。そして1964年に製作終了後には再編集して1時間のテレビ番組として放映されている。 東映は1960年に第二東映を設立して、配給系統を2ルートにして、時代劇路線と時代劇路線とを区分した。この時に第二東映では本編1本と60分前後のほとんどB級と言っていい映画を組み合せた上映システムをとったが、なにしろ製作本数が倍になるだけに、余りの製作本数に現場がついてこれず粗製乱造と言われて翌年11月には第二東映は無くなった。そしてこのあたりから、長編2本の二本立て興行が常態となり、他の各社も同じ形態になって、B級映画にジャンル分けされる作品は姿を消した。そして時代はテレビ映画を作る時代を迎えることとなった。それはほぼアメリカと同じような経過を辿ったことになる。 ただしこの量産時代の時に、余りの製作現場の混乱で、同時に撮影されている中で脇役俳優が1日に2~3本を掛け持ちで出演することが多く、そこで役者のスケジュールのダブリ(このダブリは他社の映画出演もあった)を防ぐため、製作主任が集まって調整する作業を行う中で、同時に撮影している作品をランク分けして、Aランク、Bランク、Cランクとして、「Aランク=多少の予算はかかっても勝負を賭ける映画」「Bランク=通常の映画」「Cランク=出来はどうであれ公開に間に合えばいい映画」に分類してランクの高い順から調整していったとされている。この製作する側で「勝負を賭ける映画」「通常の映画」「出来はどうであれの映画」にランク分けしていたとは興味深い話ではある。ただし、この用法にあるような三分法はB級映画という言葉にはあてはまらない。C級映画という言葉は原則用いられず(もちろん、Z級というような言葉まで用いるのも論者の自由ではあるが)、B級映画は中規模クラスから最低ランクまでは含めた、かなり広い概念である。
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