東方三博士の礼拝 (エル・グレコ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/06 14:17 UTC 版)
ギリシャ語: Η Προσκύνηση των Μάγων 英語: The Adoration of the Magi |
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作者 | エル・グレコ |
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製作年 | 1560–1567年 |
種類 | 板に貼りつけられたキャンバス上に油彩 |
寸法 | 40 cm × 45 cm (16 in × 18 in) |
所蔵 | ベナキ美術館、アテネ |
『東方三博士の礼拝』(とうほうさんはかせのれいはい、希: Η Προσκύνηση των Μάγων、英: The Adoration of the Magi)は、クレタ島出身のマニエリスム期スペインの巨匠エル・グレコが板に貼りつけられたキャンバス上に油彩で制作した絵画である。画面左下の階段に「ドメニコスの手になる」というギリシャ語のビザンチン風の署名が記されており、現存するエル・グレコの作品中、最も早い時期の作品の1つと見なされている[1]。作品は1934年にアテネのベナキ美術館の創設者アントニス・ベナキスにより購入され[1]、現在、同美術館に所蔵されている[1][2][3]。
主題
「東方三博士の礼拝」の主題は「マタイによる福音書」 (2章) に記述されている[1][4]。イエス・キリストが生まれた時、東方から3人の博士 (マギ) がエルサレムのヘロデ大王のところにやってきて、ユダヤ人の王となる聖なるイエスを拝みたいといった。自分に子のなかったヘロデ大王は彼らをベツレヘムに遣わしてイエスを探させたが、彼らの行く手を星が導いた[1][4]。三博士がイエスを抱く聖母マリアを見た時、彼らは地にひれ伏し、黄金、乳香、没薬の贈り物を捧げた[1]。絵画では、彼らの背後に彼らが率いてきたベツレヘムの隊商が描かれる[1]。この主題はキリスト教が異教徒に顕現すること意味し、すべての民、すべての時代にわたってキリスト教が広がったことを象徴する[1]。
作品

この絵画がアントニス・ベナキスに購入された際は、署名があるにも関わらず、必ずしもエル・グレコの作品と見なされたわけではなかった[1]。エル・グレコ研究の権威アウグスト・マイヤーは即座にエル・グレコ作と判定したが、作品が一躍脚光を浴びるようになったのは、1936年にモデナのエステンセ美術館の収蔵庫から現在『モデナの三連祭壇画』と呼ばれる三連祭壇画が発見されたことによる。この祭壇画は本作と同じ「ドメニコスの手になる」という署名を持ち、様式的に本作とエル・グレコ作と認められていた作品の間の橋渡しをするものであった[1]。なお、エル・グレコ研究者のハロルド・エドウィン・ウェゼイは本作をエル・グレコではなく別のドメニコという名の画家によるものとしていたが、1982年にトレドで開かれたエル・グレコのシンポジウムでエル・グレコ作として認めている[1]。
『モデナの三連祭壇画』の左翼パネルにも本作同様に「東方三博士の礼拝」が表されているが、エル・グレコがクレタ島時代に描いた[2]本作はビザンチン美術の影響をはるかに色濃く残している。全体の印象は平板で、人体や衣服のハイライトの付け方もビザンチン的な形式主義をとどめている[1]。とはいえ、この絵画は、同時にイタリア・ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノやティントレットの影響をも明らかに示している[2]。人物像は自然主義的になっており、遠近法と動きの感覚が画面に導入されている[3]。
当時、クレタ島はヴェネツィア領であった[1][3]。クレタ島にはイタリアの代表的な画家たちの作品 (少なくとも工房作[1]) があったことが知られており[2]、それらを模した版画も流入していたに違いない[1]。このような状況下で、クレタ島の画家は「ギリシャ風」と「イタリア風」の双方の様式を用途に応じて使い分け、あるいは折衷していた[1]。研究者の中には、本作がクレタ島在住のイタリア人依頼者からの要請になるものであると指摘する者もいる[2]。
脚注
参考文献
- 『エル・グレコ展』、国立西洋美術館、東京新聞、1986年
- 大島力監修『名画で読み解く「聖書」』、世界文化社、2013年 ISBN 978-4-418-13223-2
外部リンク
- 東方三博士の礼拝 (エル・グレコ)のページへのリンク