東大寺・興福寺の再建とは? わかりやすく解説

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東大寺・興福寺の再建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:13 UTC 版)

鎌倉文化」の記事における「東大寺・興福寺の再建」の解説

1180年治承4年)、南都奈良)の宗教勢力鎮圧あたった平重衡が、民家火を放ったところ、風にあおられて、天平文化以来鎮護国家中心になった東大寺や、藤原氏氏寺であった興福寺焼失した。特に東大寺大仏は像の首が落ち右大臣九条兼実が「猶々として大仏ふたたび造立するはいづれの世、いづれの時か」と悲嘆たように当初その再建はほとんど不可能なことと思われた。 しかし翌1181年養和元年)、後白河法皇造東大寺司の職を置き、造仏長官以下、担当官吏任命された。同時に造寺費用協力をつのる勧進職置かれ法然らの推薦もあって当時61歳の僧重源任命された。重源は、中国仏教聖地めぐった巡礼僧であり、法然から教え受けた念仏聖でもあった。鎌倉にあった源頼朝も米1万石、砂金1千両などを送って重源勧進こたえたまた、重源は、平泉藤原秀衡援助求めるため、奥州藤原氏一族にあたる僧西行派遣して莫大な勧進をえた。 損傷はなはだし大仏修理可能にしたのは、重源来日要請された宋の工人陳和卿らの技術指導であった。渡宋3度におよぶといわれた重源は、大陸技術すぐれていることを熟知しており、自らも中国建設技術建築術を習得したといわれている。東大寺大仏開眼供養1185年文治元年)におこなわれた東大寺再建にあたって後白河法皇は自らの知行国である周防国造営料所にあてた。重源は、建築資材求めて同地おとずれ、ついに得地保現在の山口県山口市徳地町)において「なめら(滑)」という山地巨木発見したにするため伐り出された材は130余本といわれ、なかには13丈(40メートル余)の棟木もあった。1195年建久6年)の東大寺大仏殿落成供養には、征夷大将軍源頼朝も妻の北条政子とともに参列した。さらに1203年建仁3年)には東大寺供養おこなわれた。総供養では、後鳥羽上皇東大寺再建における重源の功を、かれの深慮人格高尚さも掲げて、おおいに讃えている。 興福寺は、主として摂関家中心とする藤原氏の力によって復興した興福寺主要な堂塔造仏東大寺先んじておこなわれ京都中心に活躍していた院派院尊円派明円などのほか奈良仏師加わった南都諸寺の復興ともなって数多く仏像つくられたが、東大寺造仏においては奈良仏師流れを汲む慶派がほぼ造像独占した

※この「東大寺・興福寺の再建」の解説は、「鎌倉文化」の解説の一部です。
「東大寺・興福寺の再建」を含む「鎌倉文化」の記事については、「鎌倉文化」の概要を参照ください。

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