東大寺・興福寺の再建
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1180年(治承4年)、南都(奈良)の宗教勢力の鎮圧にあたった平重衡が、民家に火を放ったところ、風にあおられて、天平文化期以来の鎮護国家の中心をになった東大寺や、藤原氏の氏寺であった興福寺が焼失した。特に東大寺大仏は像の首が落ち、右大臣の九条兼実が「猶々として大仏ふたたび造立するはいづれの世、いづれの時か」と悲嘆したように、当初その再建はほとんど不可能なことと思われた。 しかし翌1181年(養和元年)、後白河法皇は造東大寺司の職を置き、造仏長官以下、担当の官吏が任命された。同時に、造寺の費用の協力をつのる勧進職が置かれ、法然らの推薦もあって当時61歳の僧重源が任命された。重源は、中国仏教の聖地をめぐった巡礼僧であり、法然から教えを受けた念仏聖でもあった。鎌倉にあった源頼朝も米1万石、砂金1千両などを送って、重源の勧進にこたえた。また、重源は、平泉の藤原秀衡の援助を求めるため、奥州藤原氏の一族にあたる僧西行を派遣して莫大な勧進をえた。 損傷のはなはだしい大仏の修理を可能にしたのは、重源に来日を要請された宋の工人陳和卿らの技術指導であった。渡宋3度におよぶといわれた重源は、大陸の技術がすぐれていることを熟知しており、自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれている。東大寺大仏の開眼供養は1185年(文治元年)におこなわれた。 東大寺再建にあたって、後白河法皇は自らの知行国である周防国を造営料所にあてた。重源は、建築資材を求めて同地をおとずれ、ついに得地保(現在の山口県山口市徳地町)において「なめら(滑)」という山地の巨木を発見した。柱にするため伐り出された材は130余本といわれ、なかには13丈(40メートル余)の棟木もあった。1195年(建久6年)の東大寺大仏殿落成供養には、征夷大将軍源頼朝も妻の北条政子とともに参列した。さらに1203年(建仁3年)には東大寺総供養がおこなわれた。総供養では、後鳥羽上皇が東大寺再建における重源の功を、かれの深慮や人格の高尚さも掲げて、おおいに讃えている。 興福寺は、主として摂関家を中心とする藤原氏の力によって復興した。興福寺の主要な堂塔の造仏は東大寺に先んじておこなわれ、京都を中心に活躍していた院派の院尊、円派の明円などのほか奈良仏師も加わった。南都諸寺の復興にともなって数多くの仏像がつくられたが、東大寺の造仏においては奈良仏師の流れを汲む慶派がほぼ造像を独占した。
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