東京武蔵野病院への入院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:07 UTC 版)
「太宰治と自殺」の記事における「東京武蔵野病院への入院」の解説
1935年3月16日の自殺未遂以降、太宰は様々な災難に見舞われた。まず1935年4月には虫垂炎となり入院を余儀なくされる。入院時、虫垂炎の症状は相当進行しており、手術後、腹膜炎を起こして一時期重篤な状況になった。強い痛みを訴え続ける太宰に対し、医師は鎮痛剤のパビナールを処方する。ところがその後、太宰は大量のパビナールを服用するパビナール依存になっていく。 そのような中で太宰は新設の芥川賞候補にノミネートされた。最終候補は太宰の他、石川達三、外村繁、高見順、衣巻省三であり、いずれも高い実力を持った新進作家であった。高い実力を持つ5作家の中から受賞者を決めるのは選考者にとっても大きな悩みとなった。太宰は自らの受賞を熱望したものの、選から漏れた。太宰の失望は大きかった。薬物依存が進行しつつあった太宰にとって、芥川賞落選のショックは被害者意識を亢進させ、幻覚や妄想等の症状を悪化させることになった。 第二回芥川賞は二・二六事件の影響で審査中止となったが、1936年度上半期の選考でも再び太宰の作品が候補に上った。しかし第三回芥川賞も受賞は叶わず、太宰を巡る状況は更に悪化した。薬物中毒が悪化する中、パビナール入手のための借金が雪だるま式に膨らんでいった。太宰の薬物中毒症状の悪化は、妻の小山初代にとって極めて大きなストレスとなっていた。初代は太宰の実家に実情を訴え、実家からの使者は太宰の後見役であった井伏鱒二の協力を依頼した。井伏も薬物依存が悪化した太宰への対応に苦慮しており、結局1936年10月13日、太宰を説得した上で井伏、小山初代らは東京武蔵野病院に同行し、入院となった。 精神病院に入院となった太宰は、当初明るい開放病棟である特別室に入院した。太宰は東京武蔵野病院入院中に自殺未遂を起こしたとの説があるただ主治医であった中野嘉一によれば、自殺企図の恐れがあるため開放病棟から閉鎖病棟に転棟させたとしている。当初激しい禁断症状が出て精神的にも不安定であったが、禁断症状が治まると安定し、約一カ月で退院となった。太宰は妻の初代がたくらんだ謀略に乗せられ、入院させられたと思いこむようになる。太宰と小山初代の夫婦仲は悪化しており、薬物を入手するため火の車であった太宰家の家計を嘆く初代に対して、しばしば怒りを見せていた。関係性の悪化を自覚していた太宰は、妻、初代が日ごろの鬱積した不満を晴らすために太宰を入院させたと思いこんだのである。
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