本願寺との講和・織田信長との戦い
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「上杉謙信」の記事における「本願寺との講和・織田信長との戦い」の解説
天正4年(1576年)2月以降、毛利輝元の庇護の受けていた足利義昭が反信長勢力を糾合し、同年5月頃からは義昭の仲介で甲斐武田氏・相模後北条氏との甲相越三和が試みられている。 同年4月、謙信は織田信長との戦いで苦境に立たされていた石山本願寺の顕如と和睦交渉を開始、5月中旬に講和を承諾し、成立させた。本願寺との交渉にあたったのは、上杉側の山崎秀仙であった。 謙信が本願寺と講和した背景には、足利義昭が毛利氏の庇護下で鞆城に落ち着き、義昭自身が謙信に幕府再興の援助を求めたからだとされる。また、前年に信長は本願寺を攻撃、さらに越前国に侵攻したため、顕如と越前の一向宗徒は謙信に援助を求めていた。顕如は謙信を悩ませ続けていた一向一揆の指導者であり、これにより上洛への道が開けた。甲相越一和は成立しなかったものの、謙信と本願寺との講和によって、信長包囲網が築き上げられたのである。だが、謙信が本願寺や毛利輝元との同盟を決めたことで、信長との同盟は破綻し、上杉氏と織田氏は以後敵対し続けた。 5月、毛利輝元が謙信に上洛を呼びかけたことで、6月に謙信は輝元の叔父・小早川隆景に対して、来春には上洛するように伝えている。また、10月には足利義昭からも信長討伐を求められており、謙信は上洛を急ぐことになる。なお、この時期、織田信長は朝廷から内大臣に、次に右大臣に任命されており、朝敵になったわけでもなく、単に織田政権と室町幕府(足利将軍家)との武家同士の紛争に過ぎない。
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