本作以前の「徳利の別れ」
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「仮名手本硯高島」の記事における「本作以前の「徳利の別れ」」の解説
「徳利の別れ」は史実ではなく、史実では赤埴源蔵には兄はおらず弟と妹がいるだけである。 史実において赤埴は元禄15年12月12日に妹の夫である田村縫右衛門のもとを訪ねている。その日赤埴が普段より着飾ってた事に関して縫右衛門の父から苦言を呈されたが、赤埴は苦言に感謝の意を述べ、一両日中に遠方に参る為あいさつに来た旨を述べた。そして縫右衛門と杯を交わして別れている。 本作は前述のように天保年間の講釈師一立斎文車の講釈をもとにしているが、現存する講釈の筆記本はすべて明治以降のものであり、文車の講釈そのものは伝わっていない。 しかし文車の友人である為永春水が文車の講釈をもとにして「徳利の別れ」の場面を『正史実伝いろは文庫』の中に書いており、文車の講釈の内容がある程度推測可能である。 『正史実伝いろは文庫』では中垣玄蔵(史実の赤埴源蔵)は浪人により困窮しているにも関わらず、兄の芝多伊左衛門から貰った衣類を酒代に変えてしまうような男で、伊左衛門の内儀や下女からは嫌われていた。討ち入り前日、中垣は酒気を帯びて兄の家を訪ねるも、兄は外出しており兄の妻も癪気だとして会わない。そこで中垣は兄への土産の徳利を下女に差出し、「西国に仕官が叶って暇乞いにきた。今後死ぬことがあっても恩は忘れない」という伝言を泣きながら言って帰った。翌日、兄・伊左衛門の使いの者が討ち入りから引き上げる中垣と会い、形見の品を受け取る。中垣の徳利は伊左衛門の家の家宝になった。 吉田弥生は上述の『正史実伝いろは文庫』の記述や明治期の講釈の速記を本作と比べる事で本作における黙阿弥のオリジナルな部分を推測している。まず黙阿弥は赤垣が兄の家に入るとき足の泥を畳にこすり付ける場面を付け加えることで、赤垣の無粋でこだわらない性格を演出した。また講釈では中垣は討ち入り前日に兄の家を訪れていたが、黙阿弥はこれを討ち入り当日に変更する事で緊迫感を演出している。講釈では中垣は周囲からよく評価されていないのに対し、本作の赤垣は義姉からあたたかく迎え入れられるという独自の脚色が施されている。この変更により、赤垣があたたかく迎えられる場所を断ち切って忠義のために命を捨てる事を演出している。またこれにより黙阿弥が創造した人物・与之助を兄に見立てて赤垣が酒を飲む行為に意味を持たせている。さらに元服曽我の「人は一代、名は末代」という謡いを入れる事で、討ち入りを控えた赤垣の心情をわかりやすく表現した。 なお、本作のト書きにある赤垣の服装は『正史実伝いろは文庫』の挿絵のそれと共通しており、挿絵を参考にした事が十分考えられる。 吉田弥生の調査によれば、本作以前の歌舞伎で「徳利の別れ」を描いたものはなく、逆に本作以降に書かれた『忠臣蔵月雪花誌』(明治12年12月久松座初演)、『天下一忠臣照』(明治17年9月新富座初演)など、「赤垣源蔵」が出れば「徳利の別れ」の筋に定着している。
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