本人歴
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「大米龍雲連続殺人事件」の記事における「本人歴」の解説
「警視庁史」によれば、犯人は1872年に東京・浅草の質屋に生まれたが、両親と幼少の時に死に別れ、7歳の時に大分県の寺院に預けられ、そこの住職の大米龍元の元で修行し「龍雲」の法名を授かったが、1890年に住職が死去し寺を出て熊本県の柔道道場に内弟子として入門し、柔道三段を取得。1894年に勃発した日清戦争では軍夫に志願したが、地雷による負傷で鼻柱を失い醜い容貌となった。その後静岡県島田町で寺を構えたが、やがて出奔し各地を放浪したという。 破れた法衣をまとった流れ坊主となった大米は放浪の中で数々の強盗事件や窃盗事件を起こし、入出獄を繰り返していたが、三重県安濃津監獄で懲役4年を刑期を終え1913年1月4日に出獄後、犯行が凶悪化した。
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本人歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 19:00 UTC 版)
被疑者の男性は、『有栖川宮記念事業団』(1990年5月1日設立届出)なる政治団体の代表者「有栖川識仁」(名刺の肩書は総裁)として、様々な活動を行っていた。同団体は事務所所在地同一のまま1998年に代表者・会計責任者が別人に交替していたが、2002年、団体名を『有栖川記念』に改称すると共に「有栖川識仁」が代表者に復帰、2003年には京都市内から東京都内に事務所を移転すると同時に会計責任者として「有栖川晴美」が登場、結審・収監後の2006年に解散した。 また、右翼団体・日本青年社が、男性を名誉総裁に推戴していたが、逮捕前の10月1日に任期満了を理由に退任させられている。 本人は、「京都のホテルのレストランで、高松宮よりご落胤である旨を告げられた」と説明していた。これが事実だとすれば皇位継承順位の高い皇族であるとして、一部の右翼団体が信用する事態になり、警察も看過できない状況になっていたと言われている。
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