未成線・計画路線
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築地電軌には、築地 - 下之一色間の営業路線のほか、いくつかの未完成路線(未成線)や計画路線が存在する。なお、営業路線の稲永新田 - 下之一色間は特許が失効していた時期があり、その期間は未成線であった。 小碓町 - 千年町 南区(現・港区)小碓町の明徳橋付近から東海通を東へ進み、堀川の西岸千年町字裏畑に至る、6.0 km の区間である。1920年(大正9年)10月4日、1921年(大正10年)4月18日、同年10月1日、1924年(大正13年)3月20日の4回にわたって特許が申請されたが、名古屋市電の敷設計画と競合するため1925年5月29日に不許可となった。 下之一色 - 東枇杷島間ほか 下之一色から庄内川東岸を北上し岩塚町・中村町を経て名古屋鉄道東枇杷島駅に至る 8.6 km の路線と、岩塚町で分岐して東へ向かい烏森町を通り、国有鉄道関西本線や東海道本線・中央本線と交差、西日置町で名古屋市電水主町停留場に連絡する 4.8 km の路線、中村町から分岐して東進し、則武町を経て菊井町で名古屋市電菊井町停留場に連絡する 2.9 km の路線、合計3路線が1924年3月20日に申請された。1925年5月29日に不許可となった。 下之一色町 - 熱田新田間 下之一色町字松蔭で既設線から分岐して東へ進み、南区(現・中川区)中野新町を経て熱田新田に至る 5.3 km の路線で、1926年12月22日に特許が申請された。1928年(昭和3年)4月18日に中野新町までの 2.7 km に変更した上で再度申請し、変更区間の特許が1929年(昭和4年)2月6日に許可された。だが、着工できずにいたため1933年(昭和8年)3月14日に特許は失効した。同年3月29日に下之一色町 - 中野新町間の特許を再度したが、7月11日に不許可となった。 下之一色 - 八田町間ほか 下之一色から八田町へ向かう 3.8 km の路線と、稲永新田付近の臨港地帯を通る3路線 5.8 km の敷設特許を1928年9月17日に申請した。八田町では関西本線八田駅と連絡する計画であった。1933年7月11日に不許可となる。
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未成線・計画路線
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「下之一色電車軌道」の記事における「未成線・計画路線」の解説
下之一色電車軌道には、新尾頭 - 下之一色間の営業路線のほか、いくつかの未完成路線(未成線)や計画路線が存在する。 下之一色 - 南陽村間 下之一色を起点とし、庄内川と新川を渡って海東郡南陽村大字西福田(現・名古屋市港区西福田)へ至る 5.1 km の路線で、1917年(大正6年)6月20日に申請された。同年10月6日に特許を取得したが着工できず、1934年(昭和9年)10月23日に失効した。 長良 - 岩塚町間 長良の西で南へ既設線が折れる地点で既設線から分岐し、旧佐屋街道に沿って烏森町を経て庄内川東岸の岩塚町字杭下(現・名古屋市中村区岩塚町字杭下)へ至る 2.8 km の路線で、1925年(大正14年)10月17日に申請された。だが、軌道を敷設する予定の道路は家が密集しており拡張が困難と判断され、1928年(昭和3年)1月27日に不許可となった。 下之一色 - 熱田新田東組間 下之一色より東へ延伸し、東中島町を経て熱田新田東組に至る 5.5 km の路線で、終点では名古屋市電の船方停留場に接続する予定であった。1926年(大正15年)6月29日に特許を申請したが、築地電軌と競合し同社が適当と判断されたため1928年3月31日に不許可となった。 長良 - 北一色町間 長良の西で南へ既設線が折れる地点で既設線から分岐し北上、国有鉄道関西本線南側の北一色町へ至る 0.8km の路線である。1929年(昭和4年)3月4日に特許を取得したが着工できず、1933年(昭和8年)7月21日に失効した。 下之一色 - 長良町間 終点下之一色から北上し、途中で北東に進路を変え長良町字見代佐に至る 4.0 km の路線で、1931年(昭和6年)12月11日に特許を申請したが、現状敷設する必要なしとされ1933年7月11日に不許可となった。
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