木工家としての自己形成期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 19:44 UTC 版)
「ジェームズ・クレノフ」の記事における「木工家としての自己形成期」の解説
1957年、ストックホルム市内のギャラリーで偶然見かけた家具に心を奪われ、それがカール・マルムステンの工房の作品であることを知り、マルムステンが運営する工芸・デザイン学校へ入学。この年の最年長であった。スタートは遅い。結婚はしたものの、工場労働者をしながら先行きを思いあぐねていたところに、木工作業に戻れるという光明を見出す形になった。ここから新たな家具作り人生が始まるが、心中では、子供の頃の玩具作りやヨット造りからの連続性を感じていた。この間、経済的には妻の収入に頼ることになる。 すでに家具デザインの大家であり、一流の起業家でもあり、もともと毛並みの良いマルムステンとは反りが合わず、担当教員のギター製作者ゲオルグ・ボーリンの庇護的な薫陶を受け、2年を過ごす。この時期に、ノルウェー・ヴァイキングの資料から木製鉋の製作法を復活させ、それを発展させたものが、後のクレノフ式鉋という独自の鉋スタイルに結実する。この鉋は商品化されるのではなく、彼の著書とインストラクション活動により、製作法という情報の形で欧米の英語圏・準英語圏の国々に広まり、現在多くの木工家が自作している。1960年にストックホルム郊外に小さな家を買い、地下室を工房に改造。道具や機械、木材を徐々に調達するようになる。工房自体は最低限の装備の、きわめて質素なものだった。初めは内輪の友人・知人が買い手になってくれたが、持ち前の饒舌な表現力も手伝って、徐々に理解者が増える。この間、10年にも満たない短期間のうちに、自己の家具作りのスタイルを確立している。
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