木工作業所での研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:51 UTC 版)
「リーゼ・マイトナー」の記事における「木工作業所での研究」の解説
ベルリンへとやってきたマイトナーであったが、当時のドイツは女性の学問進出に関して、他のヨーロッパ諸国と比較しても遅れていた。プランクも、特別な能力と意欲をあわせ持った滅多にない例外的な人をのぞいて、女性に大学教育を行うべきではない、と考えていた。マイトナーはそのことを知らなかったが、プランクに対面した時の態度から、彼は女子学生を高く評価していないと感じた。 しかし、プランクはマイトナーの聴講を認め、さらには自宅にも招くようになった。一方マイトナーはプランクの講義を聴いて、ボルツマンと比較して無味乾燥だと少々失望したが、交流を深めるにつれて、彼の人間性に親しみを覚えるようになっていった。 プランクの講義を受けながら、マイトナーは自分が研究する場所を探していた。実験物理学研究所所長のハインリヒ・ルーベンスに相談したところ、今席があいているのは自分の個室だけなので、そこで共同で仕事をするならば良いと回答された。マイトナーは、ルーベンス相手だと気軽に質問などができないと思ったので、その提案を受け入れるのをためらったが、その後ルーベンスは、オットー・ハーンという化学者があなたとの共同研究を求めていると告げた。そして1907年9月28日、マイトナーは初めてハーンと出会った。ハーンはマイトナーと同年代で(マイトナーが4か月年上)、気さくな性格であったため、マイトナーは、この人になら何でも恥ずかしがらず話すことができると感じた。 しかし、ハーンの上司であるエミール・フィッシャーは、女性が研究所に入ることを許さなかった。そのためフィッシャーは、マイトナーは地下の木工作業所のみで実験を行い、研究所内には姿を見せないという条件で、二人の共同研究を認めた。 マイトナーはこの木工作業所で1912年まで、ハーンと共に研究を行った。マイトナーの物理的知識とハーンの化学的知識とが補完しあって放射線の研究に成果をあげた。2人の研究が成果を上げるようになると、フィッシャーもマイトナーが研究所内に入るのを認め、2人の研究に援助を行うようになった。 研究所では多くの同僚と交流を深めた。また研究所外でも、1909年にエリザベート・シーマンと出合い、生涯にわたる友人となった。
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