木川田の意向と東電常務会決定
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「東京電力初の原子炉に沸騰水型が採用された経緯」の記事における「木川田の意向と東電常務会決定」の解説
上述のような経緯があったとはいえ、最終的に木川田がBWRを選択した理由については当時建設部長代理だった小林健三郎にも謎だった。この理由について田原は、1960年にアメリカ原子力委員会(AEC)が作成した通称「ピットマン資料」と呼ばれるレポートが出回ったことを材料としている。同レポートは、軽水炉が10年以内に石油火力と競争し得るようになる旨を予測した内容であった。また田原がある電力業界誌記者より得た情報によると、当時原子力発電を特殊法人化して官営主導で進める構想が通産官僚により練られており、その一端として1962年7月、コールダーホールの高騰で資金がひっ迫していた日本原子力発電に国家資金の導入を提案したことがあった。戦前から占領期にかけて日本発送電という国による経営一元化を体験し、電力民営論者であった木川田は関西電力と結託してこの動きを封じるため、コールダーホールの次に市場に登場した軽水炉の導入で先手を打ったものと田原は推測している。その動きは成功し、軽水炉においても国が主導する余地は小さなものとなったという。また、木川田一隆は日本の原子力発電について「敗戦の関係もあり世界的に遅れを取っているので(中略)官民協力して最も効果的な努力を結集する」「実証的経験を積み、問題点の解明を図りつつ、原子力の導入を図る」などと述べていた。 1960年に木川田は社長に昇格し、東京電力として正式に候補地と炉型としてBWRとする旨の言及がなされたのは国家資金の導入提案から2ヶ月余り後の1962年9月21日の常務会であった。木川田の口調は断定的であり、他の役員には寝耳に水だったという。
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