書道界との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/27 03:27 UTC 版)
戦前の京都には学者を中心とした書道団体、平安書道会があり、越南もその理事を務めていたが、過熱する会の運営には否定的で、同会で文部大臣賞を設ける話が出たときには、1つだけ出る文部大臣賞は特定の流儀に偏る弊害があるだけで何の得るところもないと強硬に反対し頓挫させ、副会長の長尾雨山翁を激怒させている。また田中親美の勧めで東京の東方書道会にも属していたが審査は断り、出品のみしていた。 戦後の書道界は、日展、毎日展などを中心に展覧会芸術としての方向で発展したが、越南はその審査をひどく嫌った。作品の優劣は見る人の好みと見識に任せるべきで、審査をして個性を縮めることは望ましくないという信念があり、中央の展覧会からの審査員依頼はことごとく辞退した。金子鷗亭は越南を高く評価して、雑誌『書品』に越南を紹介する論文を発表しているが、越南の審査嫌いに対しては、「審査といえばまるで親のかたきにでも会ったの如くあしらっている。---中略--- 中野のような人ばかりでは書壇は持たない」と述べている。したがって越南は日展に参加していないが、若い書家で日展に参加したい者には、日展系の大家に紹介する便宜を図っている。 越南は世俗的な地位、名誉には無関心で、“孤高の書家”と評された。最晩年に京都市文化功労者として顕彰されたことを除けば栄誉とは全く無縁であった。越南の没後においてさえ、書壇に否定的な生き方をした中野越南の展覧会を開いたら関西書壇はつぶれてしまうと関西書壇の某リーダーが述べたとの逸話があるが、一方で越南を熱烈に慕う書家も少なくなかったとされる。 2010年に没後30年展が成田山書道美術館で開催され、越南の書は、戦後に隆盛を極めた造形主義の書の対極にあるものとして位置づけられ、再評価された。
※この「書道界との関わり」の解説は、「中野越南」の解説の一部です。
「書道界との関わり」を含む「中野越南」の記事については、「中野越南」の概要を参照ください。
- 書道界との関わりのページへのリンク