書道展への挑戦
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1934年(昭和9年)、春子は自己流で書いた万葉集の春夏秋冬の歌4首を、書道界でも権威のある書道展、泰東書道院展に出品した。「ものは試し」程度の考えで、賞など想像外であったが、初の入選を果たし、褒状を受賞した。北海道在住の身では、道具や材料を揃えることも、書家の手本に触れることも困難であったため、これは快挙と言えた。 後に3歳の次男が早世という悲運に見舞われたが、やがてその想いを半紙にぶつけるかのように、それまで以上に書道へと熱中した。その努力は1936年(昭和11年)に結実し、泰東書道院展の仮名の部で特選を受賞した。 この授賞式において、春子は日本最古といわれる藤原道長の御堂関白記を目にした。これは歴史的人物の直筆で、仮名書道の原点といえる貴重なものであり、春子にとっては初めての古筆真蹟との出逢いであった。春子は感激のあまり、受賞も忘れてその場に立ち尽くすほどだった。 1938年(昭和13年)、春子が関白日記で得た感激が開花し、泰東書道院展でついに最高賞を受賞、日本の仮名の頂点を極めるに至った。 泰東書道院展はその後も、1943年(昭和18年)に戦争で中止となるまで続けられ、春子は書道の勉強を続ける励みとして、出品を続けた。書道展に出品するほどの作品を書くためには、日中の太陽光で墨の色を確認する必要があり、夜間に練習の時間を割く多忙な生活の中での取り組みは困難であったが、帯広の実家の姉が家族や入院患者の世話のため、帯広から札幌まで来て、大きな助力となった。
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