書道博物館の創設
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その後、日本新聞社を退社し朝日新聞社の社員となる。43歳の時『龍眠帖』を刊行。前田黙鳳らと健筆会を結成。47歳の時、河東碧梧桐らと『龍眠会』を結成。『蘭亭序』刊行。49歳の時、東京大正博覧会に「廓然無聖」他を出品。「永寿二年三月瓶」を入手。50歳の時、下谷区上根岸125番地(現・台東区根岸2丁目)に転居する。『芸術解剖学』『赤壁賦』発行。51歳の時『不折山人丙辰溌墨』第1集・第2集を刊行。第10回文展に「黎明」「たそがれ」を出品。64歳の時、太平洋美術学校が開校し初代校長に就任した。 晩年は、自ら長年にわたり収集した書道資料のコレクションを保存展示すべく「書道博物館」の創設に尽力し、67歳の時に博物館創設に着手する。70歳の時、帝国美術院が改組しその会員となる。この頃、書道博物館が文部省より財団法人の認可を受ける。71歳の時、1936年(昭和11年)に書道博物館が開館し、同年11月3日に開館式が行われた。72歳で帝国芸術院に入会。1943年(昭和18年)6月6日夕刻、脳溢血のため下谷区の自宅にて急死。享年78歳。6月10日に中根岸永称寺にて告別式が行われ、多磨霊園に埋葬された。 不折の没後は、書道博物館は遺族が引き継ぎ運営していたが、1995年(平成7年)に閉館し台東区へ寄贈された。1999年(平成11年)に「中村不折記念館」が完成、翌2000年(平成12年)に「台東区立書道博物館」としてオープンした。 「台東区立書道博物館」も参照
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