暦応期におきた出来事とは? わかりやすく解説

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暦応期におきた出来事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 06:17 UTC 版)

暦応」の記事における「暦応期におきた出来事」の解説

※ここでは、改元される以前日付改元前の元号用いている。歴史的には、改元されることで当年元日まで遡って改訂され場合立年改元)とそうでない場合があって統一されていないが(cf. 改元#改元の基準点)、言うまでもなく現実時間軸上で改元以前にその名称は存在しない。 ※元号分立していた時代であることから、起こった事象がどの勢力深く関係するかで元号使い分けている。併記してあるのは両勢力直接関係している事象である。 暦応元年 建武5年延元3年1月20日-29日ユリウス暦〈以下同様〉:1338年2月10日-19日) - 青野原の戦いが起こる。 建武5年延元3年5月22日1338年6月10日) - 石津の戦いが起こる。 建武5年延元3年7月2日1338年8月17日) - 藤島の戦いが起こる。 延元3年8月 - 南朝方の北畠親房が、後醍醐天皇皇子である義良親王宗良親王奉じて伊勢国大湊から海路陸奥国へ向かう。しかし途中で遭難しその後義良親王は(翌年3月に)吉野戻り宗良親王遠江国に、親房は常陸国漂着する建武5年8月11日1338年9月24日) - 足利尊氏光明天皇から征夷大将軍に任ぜられる。 暦応元年8月28日1338年10月11日) - 光明天皇元号を「建武」から「暦応」へ改元代始改元)。 延元3年9月 - 後醍醐天皇がまだ幼い懐良親王征西大将軍任命し九州派遣する暦応2年 延元4年3月 - 前年8月難破した義良親王吉野戻り間もなく皇太子となる。 延元4年8月15日1339年9月18日) - 後醍醐天皇退位後村上天皇即位後醍醐天皇皇太子義良親王譲位し、自らは上皇となる。 延元4年8月16日1339年9月19日) - 後醍醐上皇吉野行宮にて崩御する延元4年10月 - 足利尊氏が、後醍醐上皇菩提を弔うため、大覚寺統離宮であった亀山殿を寺に改めることを決める(天龍寺創建決定)。 延元4年月日不特定) - 前年8月難破して常陸国漂着した北畠親房が、その後室町幕府北朝勢力戦いつつ、常陸国にて自著『神皇正統記』完成させる暦応3年 延元4年月日不特定) - 北畠親房が『職原抄』を著す。 暦応4年 3月25日-29日間(1341年4月11日-15日間)のいつか - 塩冶高貞謀反疑いありとして足利直義誅殺される。 暦応4年延元4年6月 - 高師冬らが北畠親房拠る小田城関城など常陸国内の南朝方の拠点攻撃する12月23日1342年1月30日) - 足利直義夢窓疎石に対して翌年秋に元朝中国へ宋船2艘を渡航させ、交易得られ利益天龍寺造営にあてるよう提案する暦応5年 4月27日1342年6月1日) - 光明天皇元号を「暦応」から「康永」へ改元災異改元)。 興国3年10月 - 元朝中国天龍寺船遣わされる倭寇の船と疑われつつ、この月、明州入港この頃懐良親王薩摩国上陸し同国攻略着手する

※この「暦応期におきた出来事」の解説は、「暦応」の解説の一部です。
「暦応期におきた出来事」を含む「暦応」の記事については、「暦応」の概要を参照ください。

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