明治の駅逓寮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 07:50 UTC 版)
江戸幕府の魚類御用屋敷をほとんど改修することなく転用し続けていた最初の3年近くは、郵便事業向けに造られたわけでもなく、ひどく手狭で立て付けも悪いオンボロ屋敷での作業を強いられていたが、当局は、1873年(明治6年)12月になってようやく駅逓寮庁舎の大規模改築に着手し、明くる1874年(明治7年)の4月30日に完成を見た。新庁舎は、木造瓦葺き漆喰仕上げ2階建ての擬洋風建築で、ファブルブランド舶来製の壁掛け時計を掲げた時計塔の時報も真新しく、バルコニーのある白く美麗な建築物であったことから、文明開化のシンボルとして注目を集め、錦絵や浮世絵名所絵に数多く描かれたり、夜にライトアップされるなどして、東京名所の一つに数えられるまでになった。かかる新庁舎を描いた絵画としては、3代目歌川広重の開化絵『東京開化名所 四日市郵便役所』(1875年〈明治8年〉刊行)などがある。しかし、1888年(明治21年)2月、東京府民や旅行者に愛された名建築は火事によって焼失し、わずか14年で姿を消してしまった。 そうして実物は失われてしまったものの、人気を背景に多くの絵師が盛んに描き留めたことはこの建築物にとって幸運で、焼失することが存在そのものを忘却の彼方へ押しやるきっかけになってしまうことの多い世の習いに反して、忘れられることなく、日本国における近代郵便事業の黎明を象徴する記念碑的存在として、または、文明開化の気運を表現できる時代的アイコンとして、様々に取り上げられる機会の多いものとなっている。郵便事業に関わる切手が発行される際、何度もデザインに採り入れられてきたのも、それが所以である。
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